説教記録2月

225日 説教 ― 片桐 健司さん

希望はわたしたちをあざむかない

ローマの信徒への手紙  5:35

皆さんは、困ったことありますか? 困ったとき、どうしましたか? 私が小学校の先生をしていたとき、2 年生のクラスにけんちゃんという男の子がいました。けんちゃんは、皆と同じ勉強はあまりしませんでした。授業が おもしろくなくなると、 いつの間にか教室からいなくなって、図書室で本を読 んでいたりしました。

ある日、私は、けんちゃんのことを強く叱ってしまいました。そうしたらびっくりしたけんちゃんは「いいんだよ、ぼくなんか、いなくなったっていいんだ」と言ったのです。びっくりした私は、「そんなことないよ、君だって大切 な子どものひとりなんだよ」と強く言いました。けんちゃんは、小さいときから、「いけない子だ」と、ずっと言われ続けてきたのです。2 年生になって、担 任の先生からも「いけない子」と言われてしまって、もうだめと思ってしまったんですね。けんちゃんの心の中は「困った」「困った」「困った」がいっぱい だったんです。

「大丈夫だよ、けんちゃん。神様がきっと君を守ってくれるよ。神様は君の 味方だよ。君は神様から創られた大切な子の 1 人なんだから。けんちゃんがいてくれるだけでうれしいんだよ」。私は神様に助けてもらいながら、どうやったらけんちゃんが楽しく学校で過ごせるかなと、いろいろ工夫しながら過ごし ました。気がついたら、けんちゃんのおかげで私も楽しく過ごすことができました。

今、教会でも困ったことがたくさんあります。建物が古くなってしまったの で、地震が起きたら、どうなるかわかりません。4 月から牧師先生がいなくなるかも知れません。新年度の教会のみことばを募集しました。その中から話し合って、今日の聖書の箇所、ローマの信徒への手紙 5 章、3 節から 5 節を決め ようと思っています。

今のこの困難、苦難は、私たちに忍耐を教えてくれます。忍耐とは神様への 信頼です。神様は必ず守ってくださる。今は大変でも、共に祈り合い、信じ続 けることです。忍耐は、神様を信じ続ける私たちに力を与えてくれます。それ が練達です。そして、その先には希望があります。希望は失望に終わることは ありません。神様を信頼し、信じ続け、希望を持ちましょう。今の苦難を、共 に祈りつつ、乗りこえて歩んで行けたらと思います。

 

 

218日 説 教 ―      牧師 山中 臨在

     「礼拝しようぜ

       ヨハネにより福音書4715,23

大谷翔平選手が日本全国の小学校にグローブを寄付して、「私はこのグロー ブが、私たちの次の世代に夢を与え、勇気づけるためのシンボルとなることを 望んでいます。それは、野球こそが、私が充実した人生を送る機会を与えてくれたスポーツだからです。野球しようぜ」とメッセージを送りました。これを 引用して「私は、この聖書に書かれる御言葉が、次の世代を含め人々に夢を与 え、勇気づけると信じています。それは、御言葉が語られる礼拝こそが、私が 充実した人生を送る力を与えてくれたものだからです。礼拝しようぜ」と伝えたいと思います。

今日の箇所に登場するサマリア女性は、幸せとは言えない結婚生活を送って きて、人目を避けるように暮らしているようです。そんな彼女が水くみに来て いる時、イエスのほうから彼女に近づいて「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない・・・その人の内に永遠の命に至る水がわき出る」(14)と声をかけました。その後の会話の中で、神は礼拝する者を求めておられることを教え、 まさに「礼拝しようぜ」と招いたのです。

この当時、ユダヤ人とサマリア人は敵対関係にありましたから、ユダヤ人で あるイエスがサマリア女性に話しかけることは世の常識では考えられないことでした。でも荒れた生活の中にあって友もおらず、孤独や疲れのあったであろうこの女性を主は見捨てられませんでした。今日、人に言えない悩みや息苦 しさを抱えている人にも、罪の意識にさいなまれていて、神に顔向けできない と思っている人にも、主は声をかけて、「礼拝しようぜ」と語りかけてくださっています。なんという恵みでしょうか。

サマリアの女性はその生活に欠かせない水をくみに来ていますが、そのこと に疲れを覚えているようです。だから彼女は、イエスが「わたしが与える水を 飲む者は、決して渇かない、その人の内に永遠の命に至る水がわき出る」と言 われた時、「ああ、もう面倒な水汲みに来なくてすむなら、それをください」 とすがりついたのです。「自分は生きていかなければならない、でも生きることはつらくしんどい。このつらさから解放されたい」と思う彼女は、そのまま 私たちの姿でもあります。そんな私たちにイエスは、「わたしの与える水を飲 みなさい」と言います。イエスの招きに応えてイエスに会って、イエスの言葉 を聞いて、イエスを信じなさい、まさに「礼拝しようぜ」という招きです。礼 拝は私たちの人生を支える力と希望です。ぜひそのことを信じて歩みましょう。 さまざまな課題をいただいている今こそ、私たちは何よりも礼拝を土台として 歩まなければなりません。

そして「礼拝しようぜ」という主からの招きを受けた私たちは、互いに「礼拝しようぜ」と励まし合いましょう。小さなお子さんも、高齢者も、病気をしている方も、すべての人を主は「礼拝しようぜ」と招いておられるのですから。

 

 

211日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

   「私の畏れるもの」 出エジプト記 20:16

  十戒は私たちを束縛する規則ではなく、むしろ自由にするものです。冒頭に 神様は「わたしは・・・あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神で ある」と宣言し、囚われの身であった者を救い出して自由を与える方であることを改めて私たちに教えるのです。ここで「あなた」と訳されているのは単数 形であり、神様は一人一人と個人的な関係を結ぶという愛が感じられます。そ して「わたしをおいてほかに神があってはならない」(3)と言うのですが、これは原語では「あなたに自由を与えた私以外の神に、従うはずはないね」という神様からの語りかけとなることを覚えておきたいと思います。

更に主は「いかなる像も造ってはならない」(4)と続けます。私たちはつい 見えたり触れる物(像)に頼ろうとしてしまい、いつしかそれらを神としてしまう誘惑に遭います。でも真実の神様以外のもの(権力、お金、地位、名誉、 プライドなど)を神とする時、人はそれに縛られてしまい、自由を失います。 正義感であっても、「自分こそが正しい」という自己中心の思いが差別や他者 批判を生み、自分の価値観以外を受け入れられない不自由さの暗闇にはまって しまいます。

十戒を与えられた神様は、私たちを束縛するのではなく、自由にさせてくださる方です。私たちは、お金や権力などこの世の豊かさを神としようとします。 しかし主なる神様は、力や富や名誉といった豊かさを捨てて、私たちのために 貧しくなられた方です。イエス様は貧しさ、苦しさ、痛み、病、絶望の中にある者と共に歩み、その苦しみを自ら負われて十字架の道を歩まれました。それ は、「私」の名を呼び、「私」を愛し、「私」を友と呼んで「私」と個人的な交 わりをするため、そしてそんな私たちが、変わることのない真実である主イエ ス・キリストとの交わりによって、変わることのない豊かさを得て自由とされるためです。

歴史の中で、神ならぬものを神とすることを権力によって強要された時がありました。残念ながら今も、この世が作ったこの世の像を拝むことを強いられている人たちが少なくありません。しかし神ならぬものが神となっても、人々 はそれを「恐れる」だけで、本当の豊かさや自由は与えられません。本当の豊かさと自由を与える方は、私たちが「畏れる」神様お一人です。畏れるべき方 は、私たちを愛し個人的な関係を結んで、私たちのために死んでくださる主イ エス・キリストだけです。私たちはこの方を信仰することを、いかなるこの世 の権力にも妨げられることのないように祈り、今日 211 日を「信教の自由 を守る日」として大切にしています。

目に見える権力やお金や名誉、そんなこの世の豊かさを欲しがる誘惑にある 世の中で生きている私たちですが、そのような束縛から解放されて、ただ主イ エスのみを畏れて主が与えてくださる本当の豊かさの恵みの中を生きていき ましょう。この礼拝の招きの言葉にもあったように、そんな主に向かって、新 しい歌を歌っていきましょう。

 

 

24日 説 教―         牧師 山中 臨在

できることなら・・・  

       マタイによる福音書  26:3646

今日の箇所ではイエスの「壮絶な」祈りの姿が描かれています。悲しみもだえながら夜通し祈られたイエスの姿は私たちに何を教えているのでしょうか。 イエスは「わたしと共に目を覚ましていなさい」(38)と言われました。これ は、目を覚ましていつもわたしと一緒にいてくれというイエスの招きです。バッハ作曲のマタイ受難曲の中にある、ゲツセマネの祈りのシーンをテノールの アリアが歌います。テノールは「私はイエスのそばで目覚めていよう」と歌う のですが、これは弟子の言葉ではありません。弟子たちは実際目を覚ましていられなかったのですが、バッハはこの場面で「イエスが、自分と一緒に目を覚 ましてくれと頼まれたのだったら、私はどうしてこれにお応えせずにいられよ うか」という彼の信仰を表明しています。

このテナーのアリアのあと、合唱が「そうすれば私たちの罪は眠りにつく」 と応答します。私たちが主イエスと共に目覚めていると、罪のほうが眠くなって働くことができなくなる、というのです。逆に言うと、イエスと共に目覚めていないと罪が目覚めてしまうのだ、ということです。祈る時は、イエスと共 に目覚めていることを主は私たちに望んでおられるのだと、バッハを通して教 えられているように思います。

ゲツセマネの祈りは、神様の御心を求める祈りです。私たちは礼拝で「みこころの天になるごとく・・・」と主の祈りを祈っていますが、これはゲツセマ ネの祈りと同じく、「私の願いどおりではなく、御心のままに」というイエス の壮絶な祈りを、いつもイエスと共に祈っているのですね。

「心は燃えても、肉体は弱い」と 41 節でイエスがおっしゃいます。肉というのは人間そのものの姿です。神に背く姿、罪です。人間は罪に弱く、罪に負けて眠ってしまいます。イエスは完全に神でありました。同時に完全に人間と なられました。そしてイエスも肉の弱さがありました。もだえ苦しみました。 その弱さを持つイエスご自身がモデルとなって祈ることを私たちに教えられ ました。あなたも肉の弱さを持っているね、でも「私と一緒に」祈ってほしい、 と招いておられます。私たちは祈る時、イエスと共にいるでしょうか。イエス をしっかり見据えているでしょうか。私たちの信仰はたとえ目覚めていてもすぐに眠ってしまいます。私と共にいてくれと言われるイエスの招きに応え、イ エスと共に目覚めていられるように祈りましょう。

私たちの生活は課題に囲まれています。品川教会も多くの課題に直面しています。課題だらけで不安になったり悩んだり、あるいは課題に対して不平不満 を言いたくなることもあるでしょう。「できることなら、こうなりたくない」 と思うのは当然です。そしてそのように祈っていいのです。でもイエスは、課 題がある時にこそ目を覚まして祈りなさい、それは「私の思いではなく、御心 がなるように」という祈りに導かれ、主の最善がなるのだと、私たちに教えて いるのではないでしょうか。主イエスと共に祈りましょう。