説教記録3月

― 331日 説 教 ―             牧師 山中 臨在

再出発

コリントの信徒への手紙() 5:1121

イエス・キリストは十字架にかかって死にました。混乱と苦難の世の中に、神の国の福音を伝え、人々に希望と喜びを与えたイエス様が死んでしまったので、人々は無力感や絶望、悲しみのどん底に突き落とされました。すべてが終わった、と思いました。しかしイエス様は三日目に復活しました。それは自分がスーパースターであることを見せつけたかったのではなく、「私たちのため」(15)、絶望し歩みが止まってしまった私たちが、再出発できるためだったのです。

私が大学入試に失敗して浪人が始まった日、その再出発を恨めしく思いました。「またあの苦しい受験勉強を繰り返さなければならないのか」と嘆きました。しかしイエス・キリストの復活が私たちに与える再出発は、もう一度同じことを頑張ってやり直すということではありません。今までの道ではなく、新しい道に進みなさい、と招いたのです。でも「キリストと結ばれる人は」(17)という但し書きがあります。イエス・キリストは十字架とは切り離せない方です。神に背き、嘘をつき、意識的無意識的に他者を傷つける、そんな私たちの罪を、罪のないイエス様が自分ごと十字架に結び付けてくださいました。十字架には私たちの罪がちりばめられています。キリストと結ばれるとは、キリストの十字架と私たちが結ばれることです。それは、私たちの罪が、イエス様の赦し、そして復活の希望と祝福と交換されることです。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(17)」とはそのことです。だから私たちは新しく創造された者(17)として、希望にあふれた新たな道を行く再出発ができるのです。

キリストに結ばれることは、神と和解し(18)、神の義を得ること(21)です。それは神を神として礼拝することに他なりません。また、キリストと結ばれることは、キリストの使者となること(20)だと聖書は続けます。使者と訳されている言葉は、大使(外交官)という意味です。大使は、その国の意志を代表してそのまま友好関係を結ぶ他国に伝える役目を持っています。キリストの使者は、キリストの意志である御言葉をそのまま人に伝えます。キリストがいかにその人を愛しているかという友好の意志を伝える役目を持っています。大使がその国の意志と関係ない自分の勝手な思いを伝えると外交上の問題が生じますが、キリストと結ばれたキリストの使者も、徹底してキリストの言葉を伝えなければなりません。

ぜひ今日、復活のキリストと結ばれて、キリストにあって新しく造り変えられて、人生の再出発をしてください。キリストと結ばれた新たな人生は、希望にあふれています。

私は今日、品川教会を離れ、再出発をします。品川教会も明日から再出発をします。しかしキリストと結ばれているなら、それは今まで味わったこともないような神様の恵みをいただいて新たな道が開かれる、希望の再出発です。そのために、しっかりとキリストと結ばれ、礼拝をしてください。祈ってください。御言葉にきいてください。

品川教会が主にあって新しく創造され、素敵な再出発をされることを信じています。

 

 

324日 説 教―               牧師 山中 臨在

グッバイ」 ルカによる福音書183134

イエス・キリストは弟子たちと寝食を共にしながら、あちらこちらで神の国 の福音を宣べ伝えてきました。イエスに反対する勢力も多く、身の危険を帯びながらの宣教活動でしたが、弟子たちとの絆はそれによって益々深まり、弟子 たちにとっても主イエスはなくてはならない存在でした。そんな折、イエスは 弟子たちに、お別れの宣告をします。自分が十字架につけて殺されることを話 すのです。師匠とのさよならはつら過ぎますし、師匠の死に方はあまりにも残 酷で、弟子たちには到底受け止めて理解することができませんでした。

しかしイエスのさよならは、別れの言葉ではなくて、再び会うことの約束な のです。さよならは、英語で「グッバイ」ですが、これの成り立ちは God be with you にあるという説があります。これはとても聖書的だと思います。グ ッバイは、別れの言葉ではなく、「神があなたと共にいますよ」という祝福の 言葉なのです。イエスの言葉がまさにそのことを物語っています。確かにイエ スは殺され、弟子たちとグッバイするのですが、「三日目に復活する」と言う のです。再び会うという約束なのです。なんという希望の言葉でしょう。しか し残念ながら、まだこの時の弟子たちには、イエスの復活、再び会うということは、ピンとこない事でした。無理もないことかもしれません。でも今生きて いる私たちは、イエスの復活を知っています。聖書は復活の事実を力強く証し しています。だからこそ、私たちは、グッバイが別れの言葉ではないこと、主 が今も私たちと共におられるのだということを信じられるのです。信じていい のです。信じるべきなのです。そしてグッバイは、神の御計画がなされるという約束でもあります。「預言者が書いたことはみな実現する」(31)とイエスが おっしゃっているのはそのことを指し示しています。だから、グッバイに失望 したり悲しんだりする必要がありません。むしろグッバイは、喜びに満ちた恵 みのできごとです。

私たちの日常生活の中には、たくさんのグッバイがあります。愛する人の死 を私たちは避けることはできません。お葬式の時には、いつもご遺族の悲しみ に触れます。でも、イエスは、私たちの初穂として復活されました(Ⅰコリン ト 15:20)。私たちもイエスのように復活し、主にあって再び会う約束が与えられたのです。だから、死は別れではなく、神があなたと共にいますよ、という喜びの約束です。私はあと一週間で品川教会を去り、皆様にグッバイします。 けれど、このグッバイもさよならではなく、神があなたがたと共にいます、 という喜びの出来事です。主なる神に連なっているから、その中でまた会いますよ、という約束です。

主にあるグッバイは、神が備えられた最善のご計画であることを信じましょう。この世でグッバイに遭遇する時、ああこれは、主が昨日も今日もとこしえ に共にいてくださる希望の出来事であることを信じて歩みましょう。

 

 

3 17 日 説 教 ―           牧師 山中 臨在

わきまえなさい

             ローマの信徒への手紙 12:2, 912

自分の体を神に喜ばれるいけにえとして捧げることが礼拝だと聖書は語ります。自分のベストを捧げるのが礼拝なのです。その主の御心を「わきまえな さい」というのですが、「わきまえる」とは「分ける」という意味から来ている言葉だそうです。この世に倣って生きる私たちの思いと主の思いを分ける、 ということです。神の真理に辿り着くまで、私たちのこの世的な部分や自分の 知恵、知識、力を分けて振り落として、神の真理と私の思いを分けることです。

この世に倣って生きる自分の肉の思いを一つずつ分離し捨てていくことに よって、自分を変えてもらわなければなりません。それが献身であり、礼拝で す。説教も献金も聖書朗読も賛美歌も奏楽もすべての捧げものは、自分が献身 をしなければ主のご用にはならないのです。

ではどうしたら「わきまえる」ことができるのでしょう。そのことを示すためにイエス様が私たちの所に来て下さって模範を示してくださいました。神で あるイエス様さえも十字架の道を目の前にして祈りました。肉の思いでは、十 字架の苦しみは耐えがたいことです。苦しみもだえて「どうぞこの十字架の重 荷を取り除いてください」と血の汗をしたたらせながらイエス様は祈ったので す。祈る中で、自分の思いが「わきまえられて」いき、「しかし私の思いでは なく主なるあなたのみ心がなりますように」という祈りに変えられました。

9 節以降は、「愛の十戒」とも呼ばれ、キリスト者としてこのように愛をも って生きなさい、という勧めと励ましが綴られています。その先には、神による希望があるのです(12)。ここで語られる希望とは、見える希望ではなく、 見えない希望のことです。肉の私たちは見えるものに希望を持ちますが、主が 言われる希望は、見なくても主を信じて抱く希望です。この世に生きる私たち にとってそれは常軌を逸したことです。でも神は常軌を逸した事柄を起こされ る方であり、常識に生きる私たちが、常識を超えた主の希望を信じるように変 えられなさい、とチャレンジをなさっているのです。肉に生きる私たちには土 台無理な話です。でも「無理だ、無理だ」という私たちの思いを一つ一つそぎ落 としていくために、主は「たゆまず祈れ」と言われます。一つずつ分けて落とすのには時間がかかるでしょう。でも自分の思いを落としていくのに必要なら 必要なだけ祈りなさい、ということがこの「たゆまず」の言葉に表されている のではないでしょうか。

礼拝は主によって自分を変えていただく場です。「私の」思いを「主の」思 いから分けて、主の御心をわきまえるのです。自分が変えられるのは、自分が 自分でなくなるようで不安かもしれません。自分が一所懸命やってきたことが 否定されるようでやりきれない思いがするかもしれません。しかし主は「そん な思いさえも変えられて、主に希望を抱くようになりなさい、そのために必要 なだけ祈りなさい」とチャレンジされているのだと思います。そのチャレンジ をどう受け止めますか。

 

310日 説 教-              牧師 山中 臨在

   「テンパイ」 マタイによる福音書 11:2830

めまぐるしく動く世の中にあって、テンパっている(気持ちに余裕がなくなって、焦りや不安の中で動揺する)人が多いようです。麻雀では、あと一手で アガる(勝利する)状態のことを「テンパイ」と言うのですが、テンパイの状 態になることを「テンパる」と言います。麻雀においてテンパることは、あと 一歩で喜びの出来事になるという期待に満ちた事柄です。でもそうなると「どうしても自分がアガりたい」という欲望が強まり、その自分の欲望のためには 他のプレーヤーを蹴落とそうとしたり、自分より前に他者がアガッたらどうし ようかとドキドキするから、やはりある意味テンパってくるのです。また、自 分がアガリたいばっかりに他のプレーヤーを全く気にせず我が道を進んでいくと、とんでもなく大負けをするリスクを背負うことにもなってやはり不安に なったり焦ったりしてテンパります。

人生で疲れ、悩み、病気、不安があふれテンパった時、どうしたらいいでし ょうか。日頃から鍛えて疲れないようにするとか、栄養ドリンクを飲んで乗り 越えようとしたり、自己啓発セミナーに出席してメンタルを鍛えようと努力を したりして、危機を乗り越えようとするかもしれません。何事も努力すること は素晴らしいことですが、残念ながらそれらは根本的な解決にはなりません。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28)とイエスはおっしゃいます。疲れて苦しくてテンパった私たち に必要なのは、イエスのもとに行って休息することです。世の中に宗教は数多くありますが、「私のところに来て休みなさい」という宗教家はイエス・キリ ストだけです。多額の献金や修行を強要されるのではなく、ただイエスのもと に行くだけなのです。

主のもとに行く、というのは主を礼拝することに他なりません。主日礼拝は 安息日に行います。礼拝は主のもとで安息することであり、テンパった私たち の心に真の安らぎが与えられることなのです。だから礼拝が必要です。だから 礼拝は恵みです。だから礼拝を大人もこどもも皆で共にささげたいのです。主 の御言葉にこそ真の安らぎがあります。「わたしのもとに来なさい」というイ エスのお招きに応えないと、豊かな恵みを見逃すことになってしまいます。

礼拝は天におられる父なる神を拝すること、天を拝する天拝(テンパイ)な のです。私たちがテンパった時には、うつむいた顔を上げて天を見上げ、天拝(神を拝すること)が必要です。教会建築、教会財政、牧師招聘。私たちがテ ンパりそうなことに満ちている今こそ、私たちは天拝(礼拝)しましょう。自 分が頑張る前に、まず、「わたしのもとに来なさい」というイエスの招きに応 えて、イエスのもとへ行って真の安息を与えていただきましょう。

 

 

33日 説 教―         牧師 山中 臨在

無駄な苦労

コリントの信徒への手紙(一)15:5058

人生の中で「無駄にしてきた」と思うことはありますか。無駄かどうか、ということは、その人が何に軸を置いて生きているのか、ということにかかって くると思います。

信仰はどうでしょうか。多くの人から見たら、礼拝に出かけることや、伝道 すること、献金することなどは、無駄だと思えるかもしれません。しかし聖書 は「キリストが復活しなかったのなら、宣教も信仰も無駄です。でも実際、キ リストは死者の中から復活したので、私たちの信仰も宣教活動も無駄になることはない」と語ります。イエスの復活は私たちにとっては欠かすことのできない大切な事柄であり、私たちの信仰生活の希望です。復活という現象を信じられない人や、復活したとしても、それが一体自分と何の関係があるかわからな いという人もいるでしょう。しかし聖書は「主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜わる神に、感謝しよう」(57)と語り、イエスの復活はイエ スだけの事柄ではなく、「私たち」キリスト者にとっても、死から復活すると いう希望の出来事であることを教えています。私たちのこの肉体は罪を覆って いて、神の国に入ることはできないけれども、イエスの十字架の贖いと復活に よって、「朽ちる肉体」が「朽ちない永遠の命をもつ」ものに変えられること を聖書は力強く語るのです。

「こういうわけだから・・主の業に常に励みなさい。主に結ばれているなら ば、自分たちの苦労は決して無駄にならない」(58)と聖書は続きます。私たちの苦労というのは、主の業に常に励むことなのだ、と読み取れます。忙しい 日々の暮らしの中、教会に来るのも、奉仕をするのもひと苦労です。でもそれ でいいのです。それが必要なのです。それは無駄になることが「決して」ない からです。「あれほど熱心に神の国の福音を語っていた主イエスは結局死んで しまった。じゃあそれまでの宣教活動は全く無駄だったではないか。」人々が そう思った時、神はイエスをよみがえらせたのです。主イエスの十字架、主イ エスの苦労は全く無駄ではなく、むしろ私たちへの希望であること、私たちの 信仰が恵みであることを教えてくださり、主につながるこの人生が豊かである ことを示してくださっています。だから私たちの苦労は無駄ではありません。 ただ、「主に結ばれているならば」(58)との聖書の言葉を忘れてはなりません。 肉のままの私たちの苦労なら無駄になってしまいます。主に結ばれていること は即ち「動かされないようにしっかり立つ」( 58)ということです。そして「主 の業に常に励む」ことが私たちのなすべき苦労です。主の業というのは、主の ための業であり、私たち自身のための業ではないことを心に刻みましょう。

教会は今、来年度に向かって新たな歩みを始めようとしています。来年度の 奉仕表も皆さん提出してくださいとお願いしています。自分の好き嫌い、では なく、自分がやりたいから、ではなく、主の業をするために、主にしっかりと 結びついて、恵み豊かな苦労をしようではありませんか。