説教記録1月

128日 説 教 ―             松村 誠一先生

あこがれるのはやめましょう

エフェソの信徒への手紙 2:110

このエフェソの信徒への手紙は、教会とは何か、また教会という信仰共同体で信仰者はいかに生きるべきかが書き記されています。

今朝の聖書箇所、特に 6 節に目を留めてみましょう。「キリスト・イエスに よって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」。私たちはこ の聖書の言葉をどのように受けとめたらいいのでしょうか。この聖書の言葉を 受けとめ、生涯を歩まれた青年をご紹介し、この聖書の言葉を共に学びたいと 思います。

皆さまご存知の福本峻平君は2020年11月11日、33歳で主の御もと に召されました。私は彼に出会ったのは彼が大学3年の時で、すでに先天性大 脳白質形成不全症という難病に侵されていました。この病との戦いは、とても 激しく厳しいものでした。でも峻平君は病に侵されながらも誰に対しても笑顔 で接しておられました。どうして彼は厳しい病の中にありながらも、笑顔で接 してくれるのだろうかと不思議でした。それは「自分の感謝の思いは笑顔でし か伝えることが出来ないから」ということでした。

峻平君がこの思いを持てるのは、イエス様が共にいてくださり、イエス様に よって復活の命をいただいて、イエス様と共にいるからです。だから、今を出 来る限り生きよう、という思いに導かれていったのです。峻平君の病気は容赦 なく進行していきますが、それは過ぎ去っていくものであり、彼の人生を支配 しません。それらすべてにまさって天の王座が明らかに示されているから、こ の今を受けとめ、共にいてくださるイエス様の思いを、自分の思いとして今を 生きぬいた生涯でした。

もう年も取ってきた。何もかもが衰えてきた。そうだ、戦争もない、自然災 害もない、公害もない、病もない、複雑な人間関係から解放され、愛と、自由 と平安に満ちた神の国へ招かれたい。私はそんな憧れを度々抱いておりました。 いくらそのような思いを心に描いても、何の意味もない。「あこがれるのはやめましょう」(大谷翔平選手の言葉ですが)と峻平君は自分の生き様をもって 私に示してくれました。

神の恵みにより信仰をいただいている者は、イエス様が共にいてくださり、 イエス様の思いが心の内に示されます。その思いを自分の思いとするならば、 まず自分自身の内に喜びが与えられます。本当に苦しい時も峻平君は「今、イ エス様が共にいてくださる。感謝です」という思いに満たされ、それが相手に 笑顔で接するという行為となっていったのです。

自分の中にある思いがイエス様の思いとかけ離れていれば、まず自分自身の 心の内に喜びがありません。それゆえ心は暗くなり、口から出て来る言葉は怒 り、不平不満です。そして他者に対しても不快な思いを与え、争いの種となっていくのです。イエス様の思いはどのように与えられるのでしょうか。それは 6 節の「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてく ださった」その神の恵みに感謝する思いがあるところに、示されていくのです。

 

 

121日 説 教―              牧師 山中 臨在

知る力と見抜く力

フィリピの信徒への手紙  1:9~11

世の中には情報があふれていて、不確かな情報や他者を傷つけるような情報も少なくありません。本当に重要なことは何か知って見抜く力が必要だと聖書 は語ります。

パウロは、伝道開始当初から、熱心に信仰を守り続けているフィリピの教会 の人々が、本当に重要なことを知る力と見抜く力を身に着けて神の御心に沿った歩みをしていることを喜んでいます。神の御心が何であるかを知る力を与えられるために、私たちは祈り、御言葉に聞かなければなりません。「何よりも まず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ 6:33)とイエスは言いました。 そうすれば、私たちの必要はみな与えられるのです。この順番を間違えてはい けません。まず神に聞き、私たちの思いやこの世の価値観と神の御心を見分けることが大切です。

御心を知る力と見抜く力が与えられると、私たちの愛が豊かになる(9)と 聖書は言います。人間の愛には限りがありますが、イエスの愛は無限です。そ の無限の愛を知る力と見抜く力が身に着いた時、イエス・キリストの示された 愛が私たちの心の中にあふれてゆくのです。愛は、人に何かをしてあげること ではなく、人がしてほしいと思うことを行うことです。相手のために何かして あげると思っても、相手が実はそれを望んでいないこともあります。それなの に、お礼を言われなかったり、したことが評価されないと腹を立てたりするの は、イエスの言われる愛を見抜いていないからです。イエスは自分をののしる 者のために祈られ、自分を迫害する者を愛されました。徹底的に相手ファース トの愛を示されました。そのことを私たちは知って祈っているでしょうか。

聖書はまた「キリストの日に備えて、とがめられるところのない者となり・・・ 義の実をあふれるほどに受け」(1011)るようにと語りますが、信仰を持っ たら完璧な人間になる、ということではありません。イエス・キリストという 真実に向かって歩んでいれば、たとえ間違ったとしても、そこに戻って、主の 前に立ち止まればいいのです。そこで御言葉に聞き祈る中で、真実を知る力と 見抜く力を与えられ、再び真実に向かって歩みだすことができます。だから間 違いは失敗ではなく、真実への通過点なのです。ただ大切なことは、間違った 時にこの世の知恵や価値観に頼るのではなく、神様の御心に立ち帰ることです。 私たちは完璧ではありません。完璧になる必要もありません。完全なお方は神 様ただお一人です。もちろん間違えたら歩みを正そうとする努力は必要だし尊 いことです。でもまず人間は神の前で無力であることを知り、すべてを神様に ゆだねて、知る力と見抜く力を与えられるように祈ってゆきたいと思います。

私たち品川教会にとって「本当に重要なこと」は何でしょうか。本当に重要 なことを知る力と見抜く力を養うカギは、いつも本当に重要な主の御心に触れ ていることです。いつも聖書を読み、いつも祈っていきましょう。

 

 

114日 説 教 ―             牧師 山中 臨在

奉仕の喜び」 

フィリピの信徒への手紙1:911

教会内での奉仕に疲れを覚えることはありますか。体調や家庭の事情などで、奉仕ができなくなることもあるでしょう。その結果、教会の奉仕が一部の人だ けの負担となっていき、奉仕疲れが起こることもあるかもしれませんが、「安 息日」であるはずの日曜日が、クタクタになっては本末転倒です。

奉仕を「引き算」として考えることが原因かもしれません。奉仕をすると、 時間を取られ、労力を取られ、お金を取られます。そして取られた分、損した 気分になるのです。でも聖書をよく読んでみると、奉仕は、「足し算」である ことがわかります。奉仕によって「あらゆる恵みが満ちあふれ」(8)、また「言 葉では言い尽くせない贈り物」(15)をいただくと言うのです。主にある奉仕 は、「取られる」ものをはるかに上回って「いただく」恵みに気づいた時に、 それが喜び(7)となり、感謝(12)となると聖書は言っています。それは取 られた分を上回る、どころか、満ちあふれる、のです。

奉仕の足し算は更に続きます。奉仕の業は「キリストの福音を従順に公言し ていること」(13)、すなわち、キリストを伝えていることであり、それを受け た人々が「神をほめたたえる」(13)ので、奉仕の業が実は伝道になっている のです。だから自分は伝道の賜物がない、と思う必要がありません。奉仕は、 時間や労力、そして恥ずかしさのようなものを取られるという引き算ではなく、 それ自体が伝道になって、その結果、神をほめたたえる人が増えるという足し 算になっている恵みがあるのです。

そしてもう一つの足し算は、祈りの輪が足されて増えていくことです。奉仕 の業を見た人が、その人のために祈る(14)と聖書は言います。私たちにとっ て祈ることは欠かすことのできないことですが、人から祈っていただくことは、 それにもまして必要です。一人で信仰を保つことは難しいのです。私たちの奉 仕によって自分のために祈ってくれる人が増やされることは何と喜ばしい恵 みでしょうか。

奉仕について「惜しまず豊かに」するように(6)と聖書は言いますが、こ れは分量のことを言っているのではありません。「惜しまずに」とは「誰かに 神の祝福が届けられることを喜んで」という意味になるようです。奉仕は、自 分の労力が「取られる」引き算ではなく、それによって他の誰かに祝福が広が っていくという足し算です。奉仕は「不承不承ではなく、強制されてでもなく、 こうしようと心に決めたとおりにしなさい」(6)と聖書は語ります。奉仕は義 務でもなく、他の人に悪いからすることでもありません。勿論、人に自慢する ことでもありません。もし奉仕に疲れを覚えているなら、ちょっと立ち止まっ て神様に祈り、神様のアドバイスに耳を傾けてください。その時々のあなたの 状況に応じて、神様はきっと「今は休みなさい」とか「奉仕の数を減らしたら」 とかあるいは「別の奉仕をしてみたら?」と語りかけてくれるかもしれません。 神様が「引き算」の奉仕から「足し算」の恵みを示してくださったら、ぜひ喜 んで神様にお仕えしたいと思います。

 

 

 17 日 説教 ― 山中臨在牧師

「なんでこんなことが!」 イザヤ書 40:2731

元日に能登半島を中心に大きな地震が発生しました。各地で津波が起こり建物が倒壊し、停電や断水も発生して、正月休みを楽しんでいた多くの方々が突 如大きな被害に遭われました。翌日には、そんな被災地に支援物資を輸送して いた海上保安庁の飛行機が衝突事故に遭って、5 名の乗組員がお亡くなりになりました。なんて不条理な話でしょう。「神様がいるなら、なんでこんなこと が起こるのか!」という叫びが聞こえます。

私たちはその問いに答えようとして、必死に答えや理由を探します。何とか 苦しんでいる人の気持ちが落ち着いてくれるようにと願います。しかし、もしその理由が告げられたとしても、悲痛な叫びをしている人が納得して心が安らぐのでしょうか。きっと、私たちが考え出す答えでは、叫ぶ人の心に平安を与 えることはできません。叫ぶ人は、その答えや理由を求めているのではないの ではないでしょうか。

預言者は、「なんでこんなことが!」という問いに対して「主は、とこしえにいます神、地の果てにまで及ぶすべてのものの造り主」(28)とだけ言います。問いに対する答えではなく、ただ、神様はどんな方かを述べているだけです。でもこれはとても大切なメッセージです。不条理だと思われる事態の中に、神様が不在になる瞬間も場所もない、という宣言がなされているのです。大地地震、大事故、病気、悩み、苦しみの中に神様がいない時はなく、神様があなたを見捨てることは一瞬もないのです。その大変な状況のただ中に神様は「必ず」 あなたと共にいるのです。更に聖書は「若者も倦み、疲れる」(30)と続けます。最も元気な人もやがては気落ちするし疲れますが、神様は疲れることがありません。疲れ悲しむ人にいつも力を与え、「望みを与える」(31)方であると 聖書は名言します。

19 世紀シカゴで弁護士をしていた、ホレイショ・スパフォードというクリスチャンは、ひとり息子を病気で亡くし、その翌年、大火事によって全財産を失いました。さらに 2 年後、家族を乗せた船が大西洋上で事故に遭い、4 人の娘が全員命を落としました。船で後を追ったスパフォードが娘たちを飲み込んだその現場にやってきたまさにその時、彼の心に「心やすし、神によりてやすし」という思いが浮かんできました。それがなぜなのか私には説明ができません。しかし悲痛な叫び声をあげたいはずのスパフォードの悲しみと共に主はおられ、彼に平安を与えました。主に望みをもっていたスパフォードには、聖書 が約束する通り「新たな力を得ました」(31

私たちは神様ではないから、この世で起こる出来事の意味をすべて理解することはできません。信仰を持っていても苦しみや悲しみは荒海のように次々と 押し寄せてきます。しかし主はその悲しみや苦しみの中に、一瞬たりとも離れず共にいてくださり、試練に耐える新しい力を与えてくださる方です。神様は 罪深い私たちを決してあきらめず、愛してくださるのです。「なんでこんなことが!」と思う時にこそ、共におられる主を信じて歩みたいと祈ります。