説教記録11月

1126日 説 教 ―          小平 公憲 神学生

  「なんで私なんですか」

詩編22:2、マタイによる福音書16:26

耳の聞こえない娘をもってなげく私に、この御言葉は新しい命を吹き込みました。病気にも苦しんだ私は、クリスチャンの歌手で牧師でもある新垣勉さんをとおし、神様の愛を再発見しました。私は、教会の会堂建設に多額の献金をしたにもかかわらず病気になり、神様を恨んでいました。教会でのコンサートで、私は神様の存在を否定し、自分の献金した金を返せと心の中で叫びました。そのとき、新垣さんがくじ引きでプレゼントをすると言い、命を懸けて「自分のくじを当てて見ろ」と訴えました。そして、彼が最初に引いたカードが私のものだったのです。私は新垣さんから封筒を受け取りました。彼の「100万円が入っていますよ」というジョークに会場が笑いました。私は恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちになりましたが、その後、自分の神様への反抗に気づき、少し心が変わりました。しかし、病気は良くならず、テレビでクリスチャンの鍼灸師の話を見て、彼のところに行きました。そこで鍼を受けて気持ちよく眠り、病気が回復し始めました。

新垣さんは、生まれたときに助産師のミスで失明し、両親に捨てられ、おばあさんに育てられましたが、彼女も亡くなりました。彼の生きる目的は、自分の人生をめちゃくちゃにした助産師を殺すことでしたが、城間牧師に出会って神様の愛を知り、歌手になり、牧師にまでなったのです。目が見えないという事実は変わりませんが、彼は今では結婚して幸せに暮らしています。新垣さんの人生こそ「なんで私なんですか」という人生でしたが、彼は神様を知り、自分の人生を受け入れ、真の命を得た幸せな人生に変えられたのです。

私は、自分の経験を通して、神様が実在すること、神様が私たちの心を見ていること、神様がイエス・キリストという代価を払って私たちを買い戻したこと、神様が私たちをオンリーワンでナンバーワンに愛していること、何をもってしても神様の愛から私たちを切り離すことはできないこと、神様は私たちを見捨てないこと、神様は私たちを新しく生まれ変わらせたいこと、を確信しました。そして、キリスト教の真骨頂は、私たちにこの世の定住者としての生活を保全するような御利益宗教を与えるのではなく、この世の寄留者として、新生、新しく生まれ変わった永遠の命を与えることに気がつきました。

私たちの人生には「なんで私なんですか」ということが起きるかもしれません。しかし、視点を変えてみると、あなたに新しい真の命を与えたい神様が、キリストという代価を払って、あなたを買い戻しに来たのかもしれません。

 

 

1119日 説 教 ―              牧師 山中 臨在

       「私なんかいなくても

                 出エジプト記 35:429

神様はイスラエルの共同体に、幕屋作りを命じます。幕屋とは、神様がおられ人々が神様と会見する場所、すなわち礼拝をするところです。主の道を歩む人々にとって、まずなされなければならないのが礼拝なのです。

私たちの教会もこの礼拝が根幹にあるべきです。教会(エクレシア)というのは元来「主によって(礼拝するために)召し集められた民」という意味です。「私」が選んでこの教会に来たのではなく、主語は神様にあります。礼拝に行かない誘惑や理由は誰しもあるでしょうが、私たちがどんな状態にあったとしても、主は私たちを礼拝に招いておられるのです。

また、礼拝は私たちの献身であると聖書は教えます。22節以降に、民が幕屋を作るために献納物を携えてきたことが書かれています。彼らの日常生活の大切な物をも主を礼拝するために携えなさい、と言うのです。献身というのは、自分が握りしめているものを相手、即ち神様の側に置く、という意味なのですが、まさにこのことが語られています。私たちの献身がなければ幕屋(教会)は建ちません。「私なんかいなくても、私一人が捧げ物をしなくても、誰か他のお金のある人がすればいいだろう」では教会にならないのです。

幕屋を建てるために細かい指示が神様から出されています。人間の思いや願いに沿ってではなく、「神様の求められた通りに」教会を建て上げることが大切だということです。神様が望まれていることを聞くためには、私たちが必死に祈り、御言葉に聞かなければなりません。建築委員会や総会を何度開いても、御言葉と祈りがなければ、神様の望む教会は建ちません。

捧げ物や奉仕を「進んで心からする」という言葉が心に留まりました(5, 2129)。進んで奉仕できないから私たちは悩むのだと思います。奉仕したいけれど、どうしてもできない健康上の理由、家庭の事情、あるいは気持ちが奉仕に向かないという現実もあるかもしれません。そんな時「私なんかいなくても、どうにかなるだろう」と思うかもしれません。または、「奉仕をしないと奉仕をしている人に悪い」と思ったり「私がこんなに奉仕をしているのにあの人はどうして奉仕をしないのだ!」と腹を立てたりもします。しかしそんな私たちに聖書は、奉仕は礼拝のわざであることを教えます。私が主語ではなく、神様が主語です。そして神様は「あなたがどんな事情や状況にあっても、私があなたを必要とし、あなたの名を呼んで礼拝に招いている」と語りかけるのです。「私なんかいなくても」と思うそのあなたの献身を主は必要とされています。私の状況、私の気持ち、私の都合を私から手放し、神様の側におくこと、これを主は私たちに望んでおられるのではないでしょうか。

主の心にかなう幕屋が完成したとき、栄光が幕屋に満ちた(40:34)とあります。私たちの教会も主の求めておられる礼拝をし、教会中に主の栄光が満ち溢れるものとなるよう祈ります。

 

 

1112日 説 教―             牧師 山中 臨在

「あなたがいないとだめなんです」

エフェソの信徒への手紙4:716

聖書は、「成長させてくださるのは神です」(Ⅰコリント36)と言います。それは確かなことですが、自分の成長のために神様は他者を必要とされることを忘れてはいけません。成長するのは「私」ではなく「私たち」であると聖書は言うのです(13)。

ではどのようにして成長させていただくのでしょうか。私たちにはそれぞれに異なった賜物と役割を与えられています(11)。品川教会にもたくさんの賜物があります。そのそれぞれに与えられた役割(節々)が、キリストの体が成長するために、「補い合いながらしっかりと組み合わされ」、また「自分の役割に応じてそれぞれ働く」(16)のです。言い換えるなら、その一つでも欠けると、成長できません。品川教会を形造る「あなた」がいないとだめなんです。

ところで、成長するとはどういうことでしょうか。聖書は言います、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに」(14)揺さぶれないようになることであり、また「キリストを頭とし、キリストに向かっていること」(15)だと。お互いが結び合わされていますが、そのすべてがキリストを仰いでいることで一つになっている(13)ことが、成長することなのです。

成長は子どもだけのものではありません。青年も中年も、高齢者も、皆、共に成長し続けなければなりません。牧師がいればキリストの体が形成されるのではありません。役員にまかせておけば、キリストの体が自然と成長するのではありません。信仰歴の長い人だけがキリストの体を造るのではありません。祈りたいと思う人が何人か祈祷会に来れば、それで自然にキリストの体ができるのではありません。あなたがいないとだめなんです。

今日は次年度の役員選挙をします。選出された役員だけにキリストの体の成長を押し付けることはできません。投票する私たち一人一人が、役員としっかり結びついて、役員と共に働きを補い合うことが必要です。役員に選ばれた人も、選出されたことを謙虚に受け止め、それを一人で担うのではなく、他者と共に補い合い、支え合い祈り合う中で、キリストの体として教会の皆と成長させていただくことが大切です。役員がキリストを頭とせず、自分が頭であるかのような錯覚を起こすと、キリストの体は未熟なものになってしまいます。

聖書は、あらゆる節々(私たち一人一人)がしっかりと組み合わされ結び合わされるための、大切な接着剤があることを教えます。それは愛です(16)。キリストが示された愛を私たち一人一人が身に受け、互いを尊重し合う時に、キリストの体として成長させていただくことができます。イエス・キリストの愛を私たちは受け止めているでしょうか。その愛を他者に示しているでしょうか。「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」(Ⅰコリント39)と聖書は語ります。神のために力を合わせて働く教会となりましょう。

 

 

115日 説 教 ―             牧師 山中 臨在

     「命の終わりは命のはじめ」

               ヨハネによる福音書6:3440

イエス・キリストは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言って、肉体の死が終わりではないことを教えます。そしてイエスこそが「永遠の命に至る、命のパンである」と断言するのです。「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」というイエスの言葉に励まされます。この世は、資質や成績、また健康状態によって人を追い出すことがありますが、イエスはどんな状態の人であっても私たちを追い出しません。私たちを神との交わりに入れたい、それほど私たちを愛している、ということなのです。神は永遠の方です。ならば私たちがたとえ死んだとしても、そこで神との交わりから追い出されることはありません。肉体の命の終わりは、神との永遠の命の交わりの始まりとなるのです。そしてやがてイエス・キリストが再び来られるこの世の終わりの日に、私たちを復活させてくださる、と主は言うのです。

先ほど聖歌隊が歌った「球根の中には」という賛美歌は、ナタリー・スリースという人が、友人が亡くなって心沈んでいた時に作ったものです。「球根の中から花が出て来て咲いたり、さなぎが成虫になったり、冬がいつしか春になること、そして人が死ぬことを当たり前のことだと思っていたけれど、それは当たり前のことではなかった。どうして球根の中から花が咲くのか、どうして冬が春になるのか、どうして人は死ぬのか、自分に説明することができない。それは神様のわざであるという信仰によってでないと信じることができない。」ということをナタリーは実感します。創り主なる神は、苦しみの沈黙を歌に、悲しみの深い闇を夜明けに、弱さを力に、朽ちるものを朽ちないものへ変えられること、そして一人の命の終わりは、新しい命の始まりであるという希望であると喜び歌うのです。私たちの「命の終わり」が「神にある命のはじめ」であることは決して自然なことではなく、み子イエス・キリストを復活させられた神が、私たちに永遠の命を与え、やがて私たちをも復活させてくださる方であるという聖書のメッセージが、この歌を通して語られます。

「その日その時を神が知る」とは、たとえ私たちが復活など信じられず、神の御計画がわからないとしても、命の源として命のパンであるイエス・キリストを遣わされた神は、私たちに確かに復活の日を備えてくださるから、安心して主にゆだねて生きなさい、というメッセージです。

新型コロナ、自然災害、戦争、不況、病気等、あらゆる苦しみ・悩みの深い闇を打ち破り、希望の光をもたらす力を、イエス・キリストを通してなされる復活のわざが私たちに与えてくれます。この召天者記念礼拝は、先に召された方々を話のタネにして思い出を語る時ではなく、神に愛され先に主の許に召された方々に神が与えてくださった永遠の命を感謝し、神が備えた時に共に復活にあずかる希望を確認し喜ぶ時です。