説教記録5月

 

528日 説教―               牧師 松村 誠一

           「キリストの言葉に養われて」

 「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイの信徒への手紙316節)

キリストの言葉とは、イエス様が御自分の生涯を通して語り伝えて言葉でしょう。そしてそのイエス様が語られた言葉、振る舞いによってイエス様を救い主と信じたイエス様の弟子たちによって言い伝えられた言葉のことでしょう。その言葉は今でも聖書を通して私たち一人一人に語りかけられているのです。

 私は、朝、NHKのテレビ小説“ひよっこ”を観ています。主人公の峯子さんが、高校を卒業し、奥茨木から集団就職で東京に出て来るのですが、なぜ東京に出て来たのか。それは父親が東京に出稼ぎにいったまま音信不通、行方不明になってしまったからです。また出稼ぎに行った父親が行方不明ということで長女の峯子が父親代わりに働かなくてはならなくなったからです。私は主人公の峯子さんが、いつも心の中でお父さんと会話をしているシーンを嬉しく観ております。「おとうさん、最近は御父さんのことをあまり考える時間が少なくなってしまいました。お父さん、すみません。」という具合です。峯子さんは、このお父さんとの会話によって慰めが与えられ、勇気が与えられ毎日を過ごしているのでしょう。

私たちキリスト者もまさにこの峯子さんのように、イエス様との会話をしながら、その会話によって力が与えられ、慰めが与えられているのではないでしょうか。イエス様との会話が成立するためにはキリストの言葉が心の内に宿らなければなりません。イエス様との会話が成立することにより私たちの生活は感謝と平安の日々となるのではないでしょうか。それゆえに、だからこそ「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」と、この手紙の著者は勧めているのです。「詩編と賛歌と霊的な歌」と記されていますが、当時の教会は詩編を繰り返しみんなで唱和していたようです。また“マリアの賛歌”とか“ハンナの賛歌”が聖書に記されていますが、その賛歌をやはりみんなで唱和していたようです。そして当時も今日においても、多くの賛美歌が歌われておりますが、それは霊的な歌に属するのでしょう、その霊的な歌をみんなで歌っていたのでしょう。それは教会に集う者に神様が喜びを与えて下さり、心に平安を与えてくださるからでしょう。神様への賛美は喜びの円環であるということに気付かされます。神様はキリスト者に喜びを与えてくださる、その喜びにキリスト者は賛美をもって応答する、その応答に神様はさらに喜びをもって応えて下さる、という円環です。

 私たちもキリストの言葉を私たちの内に宿るように、お互いに教え、諭し合い、神様が与えて下さる喜びと平安に感謝し、賛美をもって教会生活を共にしてゆきましょう。

              (コロサイの信徒への手紙31617節)

 

 

521日 説教―               林 雄植 神学生

                 「愛の物語」

 今朝は教会実習中の林 雄植 神学生がメッセージを取り次いでくださいました。そのメッセージの要約を以下に記します。

イエス様は多くの人々の前でみ言葉を伝えている、その時に律法学者たちやファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえた一人の女を連れてくる話です。この女は自分の夫とは別の男と秘密裏に交際を持ち、聖書で言う姦通を行っていた。それを監視していたファリサイ派の人々は姦通の現場で女を捕えイエス様の前で連れて来たのです。そしてファリサイ派の人々はこの女の前でイエス様に質問をします。「モーセの律法によるとこの場合、石で打ち殺せとなっていますが、先生ならどうお考えですか?」と。もし、イエス様が律法に従ってこの女を殺せと言ったらどうなったのでしょうか。先ほどまで隣人を愛せよと語っていたくせによく言えたもんだ、と批判されるのは火を見るより明らかです。もしイエス様が憐れみを施し、この女を殺すなと言ったらどうなったのでしょうか。イエスがモーセの律法を守らなかった、無視したと、当時のユダヤの最高議決機関サンヘドリンに告発したでしょう。ファリサイ派の人々は決してイエス様に教えを乞うために来たのではありません。イエス様を処刑台に送るための「罠」なのです。このような時にイエス様は彼らに向かって律法の通りに石を投げなさいとお話されます。しかし、ここで大事なことがあります。イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者」がまず石を投げなさいと語られます。

イエス様のこの言葉によって彼らは「果たして私は清い者なのか、私には何の罪もないのか、私は皆の前で義人だと堂々と言えるだろうか」と、自らを省みる中、彼らは一人去り、また一人去っていきます。とうとう全ての人が立ち去った時イエス様はこの女性に近づき「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語りかけられたのです。そうです。この女性はイエス様との出会いによって新たな命、新たな人生を得たのです。「律法」は罪の重さを量り、裁き、人を死なせるものです。しかし、「キリストの愛」は助け、救い、生き返らせるのです。愛は律法を越え、死ぬべき者を生き返らせる救いのわざなのです。誰でも主イエスの御前に出てくれば死の座から救いの座へと変えられます。

私たちもこの女と同様に罪によって死する存在です。しかし、主イエスの十字架の愛を通して新たな命が与えられたのです。そして、その十字架の愛によって、今日この場に集い、共に礼拝できる恵みに与っています。だからこそ、私たちにはこの驚くべき十字架の愛をまだ知らない人々に伝える義務が生じるのです。福音を知らないまま永遠の死をただ待っている人々に、永遠の命を伝える使命が与えられているのです。一番美しい教会の姿は、イエス様が行ったように他人の恥と咎(とが)を覆う愛の姿であり、私たちが頂いた十字架の愛を宣べ伝える姿なのではないでしょうか。そして、その美しい教会の姿がここ品川教会の姿となり、ここに集う一人一人が宣教の使命を全うする主の尊い“しもべ”になることを心より願います。

              (ヨハネによる福音書8111節)

 

 

514 説教―                牧師 松村 誠一

                「信仰か、行いか」

私たちはパウロの書簡において、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるということを重ねて学んできました。私たちが救いに与ることが出来るのは行いによるのではなく、罪人にもかかわらず、その罪を無条件で赦してくださる神の恵みによってであります。

ところがヤコブの手紙では今日の聖の箇所の他、224節ですが、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません。」と記されています。私たちはこのヤコブの手紙の教えをどのように理解し、受け入れたらいいのでしょうか。この手紙の著者は、信仰か、行いかということを議論しているのではない、ということをまず抑えなければならいないと思います。ヤコブの手紙が問題としているのは、信仰の内実です。当時のキリスト者は、今日においてもそうでありますが、私は信仰をもっている。そういう人にヤコブの手紙はその信じている信仰は何なのかを問うているのです。ヤコブの手紙の“御言葉”ですが、私たちを赦し、信仰へと導いて下さる“御言葉”です。2324節を見てみたいと思います。「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」と記されています。つまり、御言葉は自分自身の本当の姿を映し出してくれる、そのような働きがあります。だからその本当の自分の姿を御言葉から見出せと語っているのです。

イエス様の姦淫の女との会話を思い出していただきたいのですが、「私もあなたを罪に定めない」というイエス様の言葉の前に立ち続けるならば、自分の醜い罪をもイエス様は赦して下さる。私は赦されているのだ。その赦しを本当に頂いたなら、他者を赦さない自分の姿も見えてくるのではないでしょうか。そして、その御言葉に立ち続けるならば、他者を赦せない私ですが、赦せるようにとの思いが与えられ、その思いに突き動かされていく、ということが起こるのではないでしょうか。それはしなさい、してはいけない、という律法的な言葉ではなく、せざるを得ない、愛の言葉として私たちに迫ってくるのではないでしょうか。御言葉は律法ではありません。御言葉を聴き、その御言葉にとどまるならば、その御言葉に突き動かされ、行いへと導かれていくのです。

私たちは神の憐れみにより、信じる信仰によってのみ救われた者であります。そして救われた者は、御言葉を聞くことが求められます。これは恵みです。そして御言葉を聞く者はその御言葉によって突き動かされていくのです。御言葉は決して人を強制する律法ではなく、せざるを得ない、愛に満ちた力として私たちの内に働いてくださる神の力なのです。

         (ヤコブの手紙12225)

 

 

 

57日 説教―                 牧師 松村 誠一

          「キリストの証人として生きる」

 ペトロの手紙一の著者は13節以下で「神は豊かな憐みにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」と語り伝えています。このような者へと導いてくださったのだからキリスト者として生きようじゃないかと当時のキリスト者に勧めているのです。

そしてさらにキリスト者の具体的な生き方が13節以下に記されています。「いつでも心を引き締め」とは岩波の聖書では「自分の想いに腰帯を締めて、」と訳されています。当時の服装は一枚の布状のものを頭からすっぽりとかぶるような洋服で、今でも中近東の人々はこのような服装をしているようです。これは動いたり働いたりする時は不便で、そういう時には、服装が邪魔にならないように腰の所に帯を締めていたようです。著者はそのような光景を思い浮かべて、キリスト者として世に出て行きやすいように、心の準備をしなさい。今自分の与えられているその場所で、キリストの証人として生活をしなさいと勧めているのです。

この手紙は小アジアに立てられた教会に宛てられた手紙です。その地はギリシャ文化に影響され、ギリシャの神々が拝まれており、倫理道徳的にも乱れていました。この手紙においても43節からですが次のような指摘がされています。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です」と。信仰に導かれる前は、このように倫理道徳的にも乱れていたのです。ですから「身を慎みなさいと」勧めております。身を慎むとは、酔っ払わないで、はっきりと目を覚ましていなさい、という意味です。お酒を飲みすぎ酔っ払いますと、現実の世界がうつろになって来て、夢と幻想の世界が大きく広がってくるのではないでしょうか。おそらく当時も厳しい現実をお酒を呑んで忘れたい、そういう人々がたくさんいたのではないでしょうか。著者はそういう光景を思い浮かべて「身を慎みなさい」と勧めているのです。そしてさらにイエス様が示された聖なる者としての歩みを始めたではないか、その歩みを貫徹しなさいと命じています。

 2017年度の「教会総会資料」の活動計画の中の最後ですが、「私たちは複雑な人間関係、複雑な社会の仕組みの中で、何をどのように判断したらいいのか、決断したらいいのか分からない時が多々あります。信仰を失ってしまうような出来事に遭うかも知れません。しかしどんな場合でも『イエス様なら』とイエス様に尋ね求めていくなら、与えられた信仰に堅く立ち、信仰者として歩んで行くことができるでしょう。」と記しました。私たちもこの手紙の勧めを心して聞き、世の中がどうであろうともキリストの証人として神の愛に生き、その愛を多くの人々に伝える者として生きる、そのような生き方が望まれているのです。だれが望んでおられるのでしょうか、神様ご自身です。ですからそのような生き方こそが私たちの生き方であり、それゆえに喜びが与えられ、希望が与えられるのです。

           (ペトロの手紙一 1:1321節)