説教記録2月

223日 説教 ―             牧師 山中 臨在

 「土の器」 コリント信徒への手紙Ⅱ4:115

聖書は、私たちは主イエス・キリストの光が輝く土の器であると語っています。人間はもろく壊れやすい器、それ自体は価値のない土の器。しかしその中にイエス様が入って下さる器、イエス様がその中で輝くための器なのです。

ではイエス様はあなたの中でどうやって輝くのでしょう? 中に入った物が輝くためには、その輝きが外に向かって放たれなければなりません。光が外に漏れる必要があります。だから器には光が漏れるための隙間がたくさん必要です。まず、器の口が大きく開いていなければなりません、そして口が大きいほどイエス様の輝きが広がります。私たちに出会って下さるイエス様に私たちも心を広げること、それは礼拝することです。私たちの入り口を主に向かって大きくすることを主は求めておられます。

さて器の口は開いていてもイエス様が最大限の輝きを放つにはもっと隙間が必要です。そのために神様は私たちを、傷つきやすい、欠けやすい、ヒビが入りやすい土の器となさったのではないでしょうか? 器の傷、欠け、ヒビ、そこが隙間となってそこから光が漏れるのです。傷があったらだめだと普通は考えますが、神様の方ではそうではありません。傷やヒビはなくてはならないものなのです。

主はその私たち一人一人を必要としておられます。イエス様が入って輝くための器が必要なのです。土の器がないと輝けないのです。土の器だから価値がなく脆い器だけれど、そんな一つ一つの器に主はそれぞれの役割を与えておられるのです。その役割を担った結果傷つくことや失敗することは確かに怖いです。しかし「苦しめられても行き詰まらない、途方に暮れても失望しない、打ち倒されても滅ぼされない」(8-9)と主が約束して下さっているのだから、安心して失敗すればいいのです。また、あなたにしかできない役割があるのと同じように、他の人にもまたその人にしかできない役割があります。そのことを私たちは主の前に謙虚に受け止め、自分の役割だけでなく人の役割にも目を注いで生きるべきなのではないでしょうか?

5節に「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるキリストを宣べ伝える」とあるように、土の器である私たちには、器である私たち自身ではなく、中に入られる主の素晴らしさを「語り伝える」という役割があります。私たちは、自分の栄光ではなく主の栄光を輝かせている土の器になっているでしょうか。それとも、自分が他人から賞賛されたい、失敗したくない、そんな思いが強く、イエス様の光を覆い隠していないでしょうか。 

私たち一人一人が、土の器として主に用いていただくように祈っていきましょう。「あなたは失敗してもいいよ、傷や欠けがあってもいいんだよ、いや私が輝くためにあなたの欠けが必要だよ」と言われるイエス様に用いていただくように、祈りましょう!

 

 

216日 説 教―                 牧師 山中 臨在

  「もったいない!」  マタイによる福音書26613

ナルドの香油は一滴で半年もいい香りが保つとも言われるほど大変高価なものだそうですが、ここに登場する女性は、この香油を、壺ごと全部イエス様に注ぎました。彼女のこの行為に対してそばにいた弟子たちが、なんてもったいないことをするのだと憤慨します。この香油の壺は、300デナリオンの価値があったのです。当時の市民の一日の労働賃金が大体1デナリオンだったので、それから考えると、この香油は人の年収分くらい、現代でいうと、大体500万円くらいの価値があると考えたらいいでしょうか。だからナルドの香油をイエスに注ぐよりも500万円で売ってそれで貧しい人たちに寄付したほうがいいではないか、というわけです。イエス・キリストは常に貧しい人や社会的身分の低い人と共に歩んで来られましたから、弟子たちの言っていることはもっともでイエス様の教えに沿っているような気がします。ではなぜこの女性はこのような「もったいないこと」をしたのでしょう?

当時のパレスチナ地方では、客が家に到着した時や食事の席に着いた時に、その人に数滴の香油をかける習慣があったそうです。また、死んだ人に油を塗るという習慣もありました。現にイエス様は「この人はわたしを葬る準備をしてくれた」と言っています。もう間もなくイエス様は十字架につけて殺されます。この女性はそのことを知っていたのでしょう。この女性のこの「もったいない」行為は、イエス様に対する彼女の愛の捧げものでした。この愛の浪費を、皆さんはどう思われますか? 

もったいない、という議論をする時に、私たちは「誰を」見ながら、「誰に」聞きながら、「誰のために」その議論をしているのかを忘れてはなりません。すべて神様から頂いたお金であれ賜物であれ、それは神様のご用のために使う、神様のご栄光のために使う、という目的からはずれ、この世の物差しでだけ考えられたのなら、それは礼拝者のすることではなくなっていきます。

ナルドの香油を注がれて埋葬の準備がなされたイエス・キリストは、私たちを愛し、その愛のゆえに十字架で死んでゆきました。イエス様が死んだってイエス様を信じない人はたくさんいるし、イエス様を信じる者を迫害する人だっているわけですから、彼の死こそ究極のもったいないことだったのかもしれません。それでもイエス様はあなたのために死なれました。イエス様は自分の命をかけて私たちを愛して下さったのです。十字架にかかって死なれるという、たった一度きりの、私たち人間の罪を赦し救いを与えるという大きなわざをなされる救い主イエス様だけを、この香油を塗った女性は見つめていたのです。その主イエスに自分の持てるものすべてを捧げるという、もったいないと思える愛の行為を彼女はしたのでした。

この女性はイエス・キリストの愛に対して、自分の最善の愛をもって応えました。私たちは、何をもって主の愛に応えますか?

 

29日 説 教―                  牧師 山中 臨在

 

「大きい小さいではなく」マルコによる福音書12:4144

一人の未亡人がレプトン銅貨2枚を献金しました。今なら100円玉2枚、という感じかもしれません。他の人はもっと多額の献金をしていましたが、彼女の献金がイエス様の心に留まりました。現代と違って当時の未亡人は働くこともままならず、生活をしていくことが本当に苦しく貧しい生活を強いられていました。それでも彼女は信仰を貫き、生活費のすべてを捧げました。その彼女をイエス様は「見て」いました。イエス様はこの未亡人の貧しい生活、疲れ果てて今にも折れそうな心、彼女の涙をじっと見たのです。誰にもわからない心の内を、イエス様だけはじっと見てくださって、「大丈夫」と言ってくださるのです。この未亡人が捧げた献金を「この人はだれよりもたくさん献金した」と主は言われました。イエス様が使われている尺度は明らかに私たちの尺度とは異なっていることがわかります。未亡人はそのお金を捧げたら明日からどうしたらいいかと思い煩うよりも、主に委ねました。それに対してお金持ちたちは有り余る中から捧げました。人間の尺度ではこの金持ちの姿が通常です。私たちも例外ではないのかもしれません。しかしイエス様は、神に委ねることをこの未亡人の姿を通して私たちに教えています

 聖書は、主にすべてを捧げなさい、と語ります。これが私たちのなすべき礼拝の姿勢です。私の有り余る中から一部だけ、ではないのです。仕事をしている時も、勉強している時も、友達と遊んでいる時も、たえず主のまなざしが注がれていることを思い、主に感謝しながらその時を過ごしなさい、ということです。私たちの礼拝する姿を主はじっと見ておられます。主が私たちにくださった賜物を私たちがどのように主にお捧げするのか、主はじっと見ておられます。私たちは大きい小さいを気にします。私たちの物差しでは、200円より2万円のほうが大きく、20分奉仕するより2時間奉仕するほうが大きいのです。しかし主の物差しは私たちのとは違っています。主は私たちの心をじっと見つめておられます。私たちの主にゆだねる信仰を喜ばれるのです。だから私たちも、他人の眼差しではなく、主の眼差しを見て歩まなければなりません。

 あなたの有り金全部を献金しなさい、あとの必要なものは天から降ってくる、と言っているのではありません。ただこの未亡人のように、貧しくても迷わずに主のみ手にゆだねて自分を捧げなさい、そのことを主は喜び、私たちの尺度では測り知れないような恵み、永遠の命のプレゼントを与えてくださるのです。

私たちは誰しも貧しいです。いろいろなことが欠けている存在です。神様の愛と憐れみなしには生きていけません。その神様の愛があふれる眼差しに対して、私たちが考える大きい小さいではなく、精一杯自分自身を捧げていきましょう。

 

 

22日 説教―                    牧師 山中 臨在

   「ワンチーム」ヨハネによる福音書12:2026

昨年、「ワン・チーム」という言葉が流行語になりましたが、聖書はその前から、主の前にワン・チームになることの大切さを語ってきました。イスラエル人にとって大切な過越の祭の時に異邦人であるギリシャ人がやって来て、「イエス様に会いたい」と弟子の一人フィリポに頼みます。フィリポは自分一人で決めないで、アンデレに相談して、その結果イエス様に取り次ぎます。そのことを聞いたイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いました。これは、自分が十字架の死に向かって行くことを意味する重要な宣言です。イエス様はギリシャ人の訪問を受けて初めて、自分が何のために世に遣わされ、どのようにして死んでゆくのかという大切なメッセージを語ったのです。イエス様が世の救い主として、イスラエル人たちのためだけでなく、ギリシャ人を含めてすべての人々のために、贖いの死を遂げられるという神様の大きな救いのご計画のメッセージは、イスラエルの祭りに来たギリシャ人たちと、その受付係を担ったフィリポと、フィリポから相談を受けたアンデレと、そういう一つのチームの協力によって実現されたことでした。ここに、福音宣教のわざは、チームによってなされることが示されています。決して誰かの独断で起こされるのではないこと、また神様は、御自分のご計画をなさるのに、人を必要とされるということが語られているのです。そしてこの神様の救いのメッセージを伝えるチームには、私たち一人一人も含まれています。

 福音宣教のワン・チームになるためにイエス様は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と言われました。実を結ぶために死ぬ、ということです。これは、「ワン・チームとなるために、自分の栄光を手放すことによってチームに栄光がもたらされる」ということです。自分の栄光を捨てることによって自分が栄光を受けるのです。そのことをイエス様が模範として示されました。イエス様は神の子として、神の国の王としてその栄光があったのに、その栄光の冠を捨てて、十字架に進んで死なれました。そのことによって、本来罪のゆえに死ななければならなかった私たちが罪を赦され、神の子としての栄光を受けました。イエス様という一粒の麦が死んだことによって多くの実が結ばれました。

 ワン・チームになるのを妨げようとするサタンの力はいつも働きます。自分と異なる意見や存在を排除したいという誘惑は誰にでも起こり得ます。その誘惑に勝つために私たちは互いに祈り合わなければなりません。祈り合わないところに主のワン・チームは生まれません!

聖書はあなたに、福音宣教のワン・チームになりなさい、と語ります。そのために自分の栄光を捨てよと決断を迫ります。私たちはワン・チームになっているでしょうか。主の迫りにあなたはどう応答しますか。