説教記録10月
―10月30日 説 教― IGLグループチャプレン
岩﨑 光洋先生
「あなたが大切」マタイによる福音書24:3~14
創世記3:22~23
現代社会はカルト宗教が思いがけないところまで広がっています。カルト宗 教の代表的手法として「人の不安をあおる」という手法があります。人を不安 にさせたところで「この教えを信じれば救われます」と誘えば比較的たやすく人を取り込めるのです。歴史を振り返ると「正統的キリスト教」を名乗る教派 であってもこのように人々の不安をあおって信じさせる手法を用いたことがありました。しかし、このような手法はあくまで人間が作り出したものであっ て、聖書は、イエス・キリストは、そのようには語っていません。
イエス・キリストは「世の終わり」についてこう語りました。「そして、御 国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」世界は戦争や飢饉などによって滅んで終わるのではなく、 喜びの知らせ「福音」が全世界に広がることによって終わるのです。私たちの 人生には苦しい出来事が様々に襲ってきます。クリスチャン/信仰者にも苦難 が襲います。神を信じれば事故や病気に遭わないということはありません。し かしクリスチャンは「福音によって終わりが来る」ということに希望を置く人々です。滅びでいのちが終わることはありません。人生には死は必ず来ます。しかし「死=滅び」ではありません。(聖書の中に「罪から来る報酬は死です」という言葉があります。罪のゆえに死が訪れることはあります。しかし死が訪れたらそれは全て罪ゆえかというとそうではありません。)
世界の始め、神様がエデンの園にアダムとエバを住まわせた時、アダムとエ バは神様から「食べてはいけない。食べると死んでしまう。」と言われていた「善悪の知識の実」を食べてしまいました。その後、神様は「手を伸ばして命 の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある」とおっしゃってアダムとエバをエデンの園から追い出されました。神様は人間が永遠に生きることを望まれませんでした。これは人間に対する罰ではありません。人間が「何が善で何が悪か」を知りながら、そして自ら「悪」をおこなってしまう性質を持ちながら、「死ぬことができない」のは地獄です。
神様は人間を愛をもってお造りになりました。人は神様に愛されるために造られたのです。確かに人間 は神の言いつけに背いた「罪」ゆえに死ぬものとなりました。しかし神様は人 間を愛するがゆえに「死」をも「恵み」に変えられたのです。神様がアダムとエバをエデンの園から「追い出された」のは、清らかな楽園に汚れた人間がふさわしくないから追放されたのではありません。そうではなく、与えられた人生の時間の中で(時には悪をおこなうような失敗をしながらでも)人間がいのちを輝かせながら広い世界へと、福音が広がる世界へと歩み出していけるようにと人間を愛するがゆえに派遣してくださったのです。
―10月23日 説 教 ― 村中 範光 先生
「神の前に立つとき」 ルカによる福音書 18:9~14
ルカ福音書から、ファリサイ派の人と徴税人、この二人のお祈りを見て語られたイエス様の言葉を通して学びたいと思います。イエス様は 14 節で「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の 人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」と 語られています。今日の箇所は一次的には謙遜がテーマなのですがもう一歩掘り下げて祈りの場で、即ち「神の前に立つとき」という私たちの原点について 考えてみましょう。
ルカ福音書ではいつくかの有名なたとえが語られ、二人の人物が比較されて いますが、今日の箇所ではファリサイ派の人と徴税人が登場人物です。その中 でも冒頭でファリサイ派の人について彼の傲慢さがとても厳しく指摘されて いて、11 節では彼自身の言葉がその裏付けとなっています。ファリサイ派と いうのは当時聖書で伝えられた律法(教え)を忠実に日常生活で実践すること を大事にしていた人々の集まりです。いわば信仰の模範とされていた人たちな のです。ただルカ福音書ではまことに手厳しく、「強欲、悪意(11:39)」「偽善 (12:1)」と指摘されています。今日の 1 節でもイエス様の言葉ではありませ んが「正しい人間とうぬぼれて、」「他人を見下している」と言われています。 でも彼は信仰の証しとして 12 節で「週二度の断食、」「十分の一の捧げもの」 の報告をしています。
一方徴税人はユダヤ人社会にあってはローマの手先となって徴税を、それも 不当に行っていると激しく非難、差別されていた人たちです。救いにあずかる ことはないとされていた人たちです。その彼は 13 節でただ一言「罪びとの私 を憐れんでください」との祈りをささげます。
祈りというのは神と対峙する大事な瞬間です。その時に私たちはどのように 語りかけたらいいのでしょうか。イエス様はルカ福音書 11 章で、主の祈りで 私たちの思いを祈りなさいと教えてくださいました。祈りの時間は神の前に立つとても大切な時ですから、マタイ 6 章で祈る心がまえが示されています。祈りは私たちにとって聖書を読むのと並んで日常での大切な時間です。祈る時に 大事なのは今自分が持っている思い(悩み、苦しみ、喜び、感謝)を素直に神 に語りかけることでしょう。ファリサイ派の人の祈りは、人との比較で優位に 立っていることや信仰の実践を誇らしげに伝えている報告でしかなく、本当の 心の思いを神に届けていないように思えます。
徴税人は日々の暮らしの中で切実に自分は罪びとだと思って苦しんでいて、 でも彼の神には憐れみがあることを信じて、彼にもその憐れみが示されますようにと祈っています。彼の苦しい思いと憐みを願う祈りは詩編に多く見られます。神を手ひどく裏切る行為をかさねたダビデは詩編 51 で憐れみと慈しみを、 罪からの清めを祈っています。主は憐れみと慈しみに富んでおられます。すべての思い悩みに耳を傾け、救いの道を必ずお示しくださいます。私たちは安心 してどんな思いでも主に祈りましょう。すべての心からの真剣な祈りを主は 「義(よし)」とされるからです。
―10月16日 説 教 ― 牧師 山中 臨在
「愛の大きさ」
エフェソの信徒への手紙 3:14~21
イエス・キリストの愛は「広く、長く、高く、深い」と聖書は言いますが、 それは皆さんにとってどれくらい大きいですか。東京タワーの大きさは東京タ ワーの中に入ってみて初めてわかるように、キリストの愛もその中に入ってみ ないと大きさがわからないのではないでしょうか。教会学校や説教で語られる イエス様の愛「について」知っていてもイエス・キリストの愛は人間の知識を はるかに超えています。その愛の大きさを知るために、私たちは外からキリス トを眺めているだけではだめなのです。
キリストの「内に」入っていって初め てその愛の大きさがわかります。 キリストの内に入るためのカギは祈りです。これまでパウロは「神」と言っ てきたのにこの箇所から急に「父」という言葉に変わっていることは注目に値 します。父とは家族に名前を与えて生きる意味を持つ者とする存在です。私た ちにとって偉大過ぎて遠い存在としての神ではなく、私たちと直接関わってく ださる、親しい存在である方に語りかける祈りをすることで、私たちが神様(御 言葉)の「当事者」となって主の中に入っていく、それを通して初めてキリス トの愛の大きさを理解することができるようになるのです。
さてもう一つパウロの「変化」があります。この箇所の初めには「わたしが」 「あなたがたのために」祈るという区別をしていたのに、20 節から「わたし たちの内に」というふうに、一人称複数形に変わっています。父なる神様に祈 る中で、私たちが神の家族とされていくことが大切です。そうすると、キリス トの体であり神の家族である私たち教会は、「わたしの」祈りが「わたしたち の」祈りになるように整えられていく必要があるでしょう。週報に祈りの課題 が載っています。そして祈りに覚える方々が載っています。ぜひこれを用いて 「私たちの祈り」を祈りたいのです。パウロはフェソ 2:18 で「このキリス トによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことがで きる」と言っています。他者と一つとなって他者の祈りの課題を祈ることで、 他者のことを外から眺めているのではなく、他者の祈りの当事者とさせられま す。また祈りの課題もどんどん出して互いに祈り合っていきたいのです。「私 のことで皆さんにご迷惑をかけては申し訳ない」ということもよく聞きますが、 他者のために祈ることは迷惑ではなく、むしろ恵みです。他者のために自分の ことのように祈る中で、自分の祈りの課題を他者に分かち合うことで、私たち はキリストの内に入り、キリストの愛の大きさを知ることができる祝福をいた だくのです。
聖書(御言葉)を外から眺めるのではなく、その内側に入っていきましょう。 父なる神によって家族とされた私たちが互いに互いの当事者となって祈り合 っていきましょう。
―10月9日 説 教― 牧師 山中 臨在
「働かざる者、食うべからず」
テサロニケ信徒への手紙(二)3:6~15
「働かざる者、食うべからず」は聖書から来ている言葉ですが、どういう意 味なのでしょうか。
テロニケの教会の人たちに、パウロは主の再臨について教えました。する と「主がすぐに来るなら、今更あくせく働いてもしょうがない」と思って働こうとしない人たちが出て来たようです。彼らは「怠惰な生活をし、余計なことをしている」(11)と書かれています。「余計なことをしている」とは、本来自分がなすべきことに目を注がず、他の人のすることに口を出すのを楽しむ、 という意味ですが、聖書はそのような生き方ではなく「落ち着いて仕事をしな さい」即ちしっかりと自分がなすべき働きをしなさい、と教えます。なぜなら神様は労働を祝福されるからです。初めの人アダムが創られた時、彼はエデンの園を耕し守るように神様から働きと(創世記 2:15)、あらゆる生き物を治める働きを(創世記 1:28)を与えられました。それに忠実に生きるアダムを 神様は祝福し、アダムには喜びがあり平安の内に過ごしていました。労働は神 様から人間に与えられた使命であり、神様の祝福を得られる喜びなのです。だから私たちは神様が命じられるように働くのです。しかしアダムは神様の言葉 に背き自分中心に生きる者となった時、神様はエデンの園から人を追い出し、 生涯「顔に汗を流してパンを得」(創世記 3:19)なければならない者とされ ました。本来喜びである労働が苦痛に変えられてしまいました。神様につながっていない人は、労働の祝福の側面ではなく、苦痛の側面に目を注ぎ、労働か ら離れようと怠惰になってしまいます。「余計なこと」つまり、神様に目を注がず神様から離れた余計なものに目を向けるなら、苦痛としての労働がいやになり怠惰への道を歩むことになってしまいます。
ところで聖書が言う「働かざる者」とは、子どもや専業主婦、体が不自由な高齢者の方々、仕事を解雇された人たちのことではありません。彼らは無職かもしれませんが、神様が与える「働き」にはさまざまなものがあるのです。神様は一人一人に役割を与えておられます。聖書が語る「働く」とは、最初の人アダムがそうであったように、神様から託された務めを担うこと、であることを忘れてはなりません。主を証しする働き、悩みを持つ人の話を聞く働き、あるいは礼拝堂の掃除をする働きなどもあるでしょう。そして何より「祈る」と いう働きをすることができます。むしろキリスト者にとって祈るという働きは 欠かせないのです。3 章の初めにパウロは、教会の人々に祈ってほしいと切に願っていますが、それほど祈りは力となり、また他者を励まします。信仰共同 体において「他者」と共に歩むということはとても大切です。「たゆまず善いことをしなさい」(13)と語られているように、他者を励まし喜びを与える善いことは、神様が言われる「働き」の大切な部分です。
この世の価値ではなく、神様が尊ばれる働きに目を注ぎ、あなたに託されている神様の働きに励んでいきましょう。
―10月2日 説 教― 牧師 山中 臨在
「看板」 コリントの信徒への手紙(二)4:1~6
品川教会には看板がありますが、この看板の目的は何でしょうか。この教会 の看板は何を宣伝しているのでしょう。聖書は、イエス・キリストを宣べ伝えるのが教会の使命であると言います。イエスを宣べ伝えることは、イエスについて宣べ伝えることとは違います。イエスについて語ることは、信仰を持って いない人であってもできますが、イエスを伝える人は、自分自身の中に確かに イエスが生きて働かれていることを確信し喜び、イエスに全てを委ねる生き方 をしている人です。イエスと共に歩むその人の生き方がイエスを宣べ伝えるの です。「自分自身を宣べ伝えるのではない」とパウロは語ります。2 節で書かれているように、人間は悪賢く歩む誘惑、神の言葉を曲げる誘惑にかられてし まいます。主の栄光を表したいと思いつつ、自分の栄光がどこかに表されることを望んでしまう性質があるようです。私たちはどうでしょうか。私たちの教 会の看板は何を伝えているのでしょう。立派な礼拝堂、信徒の数、良い聖歌隊、 仲良く柔軟性に富んだ教会員、素晴らしい教会組織。もしもそれらが品川教会 の看板の目的だとしたら、それは聖書が語っていることとは違っています。
そうではなく、品川教会という、取るに足りない人間の群れが、ただ神の憐れみを受けた者として暗闇の中に光を与えられ、本来キリストを宣べ伝えるに ふさわしくない者の群れであるのにその私たちの中にイエス・キリストが働かれて変えられた、そのことをただ伝えていく使命を与えられているのです。何 も誇るようなものはない私たちを用いて下さった主はなんと素晴らしい、その ことを私たちは自分の生き方を通して、自分の中におられるキリストを伝えて いくことしかできません。
品川教会は今どの方向に向いて歩んでいるでしょうか。教会はどんな時も、 主イエス・キリストを宣べ伝える方向に歩いて行かなければなりません。それ が私たちに語られる今日のメッセージです。私たちは一所懸命にやっています。 でももし私たちが一所懸命やっている品川教会のことを看板で伝えようとするあまり、それがイエス・キリストを伝える妨げになるならば、品川教会の看 板を外したほうがいいのです。品川教会の看板はいりません。ただイエス・キ リストの看板が掲げられ、イエス・キリストの光が放たれなければなりません。
こんな小さな私の内に、あなたの内に生きて光を輝かせてくださる主の恵み を今日もう一度感じてみましょう。祈って祈って祈って、主と語らい、与えられた恵みそのままを伝えていきたいです。