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説教記録9月

924日 説 教 ―   小平 公憲 神学生

「イエス様はハンバーガー」

 コリントの信徒への手紙() 5:1721

この聖書箇所は、パウロが新しく造られた者として神と和解したことを語っています。彼は自分自身の体験を通して、キリストと出会ったことで過去の罪が赦されて新しい人に生まれ変わったことを証ししています。また、神がキリストによって世をご自分に和解させ、その和解の務めを私たちに授けてくださったことを強調しています。神が罪を知らないイエス様を罪とされて、私たちの罪を肩代わりさせたことを感謝しています。最後に、私たちが神の和解を受け入れて、キリストの使者として和解の福音を伝えることを勧めます。

パンを食べたい人(テーゼ)と肉を食べたい人(アンチテーゼ)が議論しても、どちらかが妥協しない限り、いつまでたっても話は平行線です。でも、もし2枚のパンの間に焼いた肉を挟んで食べたらどうでしょうか。パンだけを、肉だけを食べるよりもおいしい食べ物ハンバーガーが生まれます。このハンバーガーを通して二人は和解できるのです。これは弁証法で言う一段高い次元の解決策(アウフヘーベン)です。

ドイツのバルトという神学者は、哲学者ヘーゲルの弁証法という方法を用いて、神と人間の関係を説明しました。弁証法とは、対立する二つの主張(テーゼとアンチテーゼ)から、一段高い次元の新しい主張(アウフヘーベン)を導き出す方法です。神がテーゼであり、人間がアンチテーゼであるとします。神は聖く完全なお方であり、人間は自分勝手で罪に汚れた存在です。この二つは本来交わることができないのですが、イエス様がアウフヘーベンになって、神と人間を和解させたのです。イエス様は神でありながら人間となり、人間でありながら神の性質を持った方でした。イエス様は私たちの罪を背負って十字架にかかりました。イエス様は神と人を和解させた、まったく新しい価値を持った一段高い次元の存在(アウフヘーベン)なのです。

この弁証法は現代社会にも適用できます。1987 年に起きた大韓航空機爆破事件で夫を失った未亡人と、恩赦になったその犯人である女性が、皮肉なことに同じ教会に通うようになりました。この二人もテーゼとアンチテーゼであり、絶対に許し合えない関係でしたが、イエス様の愛によってお互いを理解し合い、許し合い、和解したのです。この二人も一段高い次元の歩み(アウフヘーベン)を始めたのです。

私たちクリスチャンは、戦争に代表されるような大きな対立から、身近で起きている分断までに目を向けて、イエス様の愛に希望を抱き続け、和解の福音によって世界を変えていくことを伝え続けていきましょう。

 

 

917日 説 教―         牧師 山中 臨在

「年を取るってすばらしい!」   詩編711421

日本は世界の長寿大国ですが、長生きイコール幸せかどうかはわかりません。闘病中の高齢者の数は年々増え、本人はもちろんのこと、その家族には介護の課題が突き付けられます。かく言う私も、若い頃のような体力はなくなり、健康に不安を覚えています。健康だけではありません。年を取るにつれ、人はそれまでに獲得してきた地位や名誉、収入、人脈、あるいは気力といったものを少しずつ失っていきます。家族や友人を失う経験も増えるでしょう。年を取ることは、そんな喪失感に悲しむこと、あるいはやがて体験するであろう喪失感に対する不安が増大していくことなのかもしれません。

詩編71 篇の詩人も、年を取ることへの不安の中にいることが想像できます。信仰生活もある程度長いようですが(17)、信仰があってもなお、年を取ることへの不安や恐れは消えないのですね。ところがそんな中で、詩人は、主に対する祈りと賛美が湧き上がっています。「繰り返し」(14)、「絶えることなく」賛美するのです。気力も衰えてきているはずなのに、主の御業を次の世代に語り伝えたい(18)という思いに満ち溢れています。その力と情熱はどこから来ているのでしょう。

恐らくこの詩人は年を取って来て喪失感を味わっていると思いますが、自分が持っていたいろいろな物がなくなってきた時に、決してなくならない大切な物がより鮮明に見えてきました。それが神の恵みの御業でした。今まで自分の周りにあった地位や名誉や財産や健康に隠れていてよく見えなかった、あるいは見ようとしなかった神様の恵みが「語り尽くすことができない」(15)ほどあることに気づいたのです。詩人は年を取った今、神様の恵みを具体的に語ります。詩人はこれまでの人生で「多くの災いと苦しみ」(20)を味わってきたのです。文字通り死ぬばかりの苦しみだったことでしょう。しかし主はそんな彼に「再び命を得させ」、苦しみの「深い淵から再び引き上げてくださり」(20)「力づけて」くださった(21)のです。若い時は訓練(試練)に遭うと心折れてくじけそうになり、すぐにへこたれてしまうかもしれません。でも詩人は主の訓練を長い人生何度も何度も経験し、その訓練の先には主の救いがあることを知ったのです。年を取るってすばらしいことだと身をもって経験したからこそ、「これは命あるうちに、若い世代にこの主の恵みを伝えたい」という情熱が湧きおこったのではないでしょうか。

「歌いつつ歩まん」という賛美歌は、「恐れは変わりて祈りとなり、嘆きは変わりて歌となりぬ」と歌います。詩編71 篇の詩人もまさに、年を取って自分の力を失って、恐れや嘆きの中で主に祈り、主へのほめ歌が湧き出てきました。年を取るってこんなすばらしい恵みが与えられています。そして私たちのこの祈りとほめ歌を主が聞いていてくださる、とはなんと嬉しいことでしょう。

 

910 説 教―           牧師 山中 臨在

  「大空と大地の中で」

マタイによる福音書62534 

今日の箇所は、山上の説教と言われ、イエスが山で多くの人たちに教えている場面です。何を食べ何を飲み何を着ようかと思い悩むな、とイエスは言います。裏を返せば、民は日常生活においてさまざまな悩みがあったのでしょう。その悩みを解決してほしい、そこから助け出してほしい、という切実な思いから、皆イエスに救いの手を求めていたのかもしれません。

そんな彼らにイエスは、思い悩まない方法として「空の鳥をよく見なさい。野の花を注意して見なさい」と伝えます。「人生を必死に生きているからこそ悩みがあるのかもしれないが、空を飛ぶ鳥は特に何か役に立つことをしているわけではないが、神は尊く思って養ってくださっている。野に咲く花もせっせと働くわけでもないのに、神が育ててくださって、しかも世界一豪華な宮殿よりも、その花を美しく作ってくださっている。あなたたちは、鳥や花よりももっと価値ある存在なのだから、神のお守りがないわけがない。だから悩む必要はないよ」そんなメッセージを送っているのです。

ここで「よく」(26)「注意して」(28)見なさい、と言われていることを心に留めたいと思います。鳥をよく見ると、一羽二羽だけでなく、ありとあらゆる鳥がいます。旧約聖書の規定によれば、「清くない」とされている鳥もいます。でもどんな鳥も神が見事に養ってくださっているのです。大地を注意して見ると、明日は炉に投げ込まれるような(30)見向きもされず、雑草などと言われている草でさえ、神は美しく育て尊んでくださっていることがわかるのです。そしてそれが、神の国とはどんなことなのかを指し示しています。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(33)とイエスは悩める民に教えるのです。見た目がどうとか、人から見た価値がどうとか、それは神の目には関係ない、どんなに思い悩み、苦しみがある人でも、すべての人が神のお守りの中にあり、神の目には美しく尊ばれていることを忘れないように、と励ましてくださるのです。思い悩みがあると、私たちは悩みそのものから目が離れず益々苦しくなります。そんな私たちに、「その目を上げて大空を見てごらん、そして今度は少し目を下げて大地を見てごらん、立派な哲学書や人生の手引き書を読まなくても、神が与えてくださった大自然に目を向けることで、神の愛と恵みを知ることができるよ。もう悩まなくていいよ」とイエスは語りかけてくださっているのではないでしょうか。

聖書は、神があなたに与えた命は尊いものであること、その命を大切に生きるように語ります。私たちの思い悩みから少し視線を移して、神が造られた大空と大地を「よく」見てみましょう。そこに神からの励ましと生きる力をいただけたら、なんと素晴らしいことでしょう。

神が造られた空の鳥や野の花を見て、神の国の恵みとの励ましを感じられる。だとしたら、神の創造物である私たちもまた、神の国と神の愛を指し示していなければなりませんね。私たちは、そんな証し人となっているでしょうか。

 

 

93日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

     「他人の不幸は蜜の味」

            ローマの信徒への手紙6:921

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と聖書は語ります。私たちはこの御言葉の通りに生きているでしょうか。また、喜ぶ人と共に喜ぶのと、泣く人と共に泣くの、どちらが易しいですか。「他人の不幸は蜜の味」と言いますが、人が持つ妬みという本質的な性質をよく表しています。自分の幸せが一番だから、自分より幸せな人を見てもそれを素直に喜ぶことができないのでしょう。そういう意味では、泣く人と共に泣くほうが易しいと思うかもしれませんが、それは自分より不幸な人を見て優越感にひたれるからであったり、自分はその不幸がなくてよかった、と安心するからなのだとすると悲しいことです。そしてそんなエゴは私たちの心の中に潜んでいるのです。「喜ぶ人と喜び泣く人と泣く」という一見簡単そうに思えることがいかに難しいかを聖書は語っています。この箇所には、難しいことのリストがずらりと並んでいます。「苦難を耐え忍べ」(12)、「あなたを迫害する者のために祝福を祈れ」(14)、「悪に悪を返すな」(17)、「敵が飢えていたら食べさせよ」(20)、などなど。その難しいことリストの真ん中に「喜ぶ人と喜び泣く人と泣く」ことがあるのです。

一緒に笑ったか、一緒に泣いたか、という目に見える、表面的なことを聖書が言っているのではありません。「霊に燃えて主に仕えなさい」(12)と言うのです。人と比べて自分の幸せを測定する人生から解き放たれ、私たちに与えら

れる聖霊を心に満たし、私たちの頭である主イエス様に仕え、イエス様に倣う者として歩みなさい、というメッセージをいただいているのです。私たちは互いに思いを一つにしておらず、高ぶり、気の合わない人とは交わらず、自分を賢い者とうぬぼれています16 節)。そんな自分勝手で嫉妬深く、他者の不幸を喜ぶような私たちのために、涙を流し、寄り添い、命を捨ててまでも救い出そうとされたイエス様の愛を受け、イエス様が愛された他者に思いをはせ、喜ぶ人と共に喜び、泣くものと共に泣いたイエス様に倣う者となりなさい、と主は私たちにメッセージを送っておられるのではないでしょうか。

「できれば、あなたがたは人と平和に暮らしなさい」(18)の「できれば」という言葉は少し頼りない感じもしますが、私はそこに神様の愛を感じます。喜ぶ人と喜び泣く人と泣くことなどできそうにないと思う私たちに、「あなたにもできるのだよ」という励ましを与えているように思えます。そのために、

主を見上げて主に仕えなさい、と聖書は言うのです。御言葉に聞きなさい、祈りなさい、と言うのです。だから、礼拝、教会学校、祈り会は、どれも信仰生活に欠かすことのできない3 本柱です。

一つになれない私たちを、御言葉が一つにしてくれます。共に御言葉を求め、御言葉に聞き、御言葉を語り、御言葉を伝えていきましょう。御言葉によって、喜ぶ人と喜び、泣く人と泣く者に変えていただきましょう。