説教記録

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説教記録8月

827日 説 教―         牧師 山中 臨在

 

「ああ勘違い」 ヨハネによる福音書6:2233

 

私たちは時折勘違いをします。勘違いとは、自分の偏った知識や思いによって正確な事実を認識しないこと、だそうですが、イエス様の時代にも人々は勘違いをしていたようです。イエス様の話に感銘を受けた群衆は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28)と尋ねます。これは、自分たちの力で神様の働きをするのだ、という勘違いです。神の業は神がなさるのです。

 

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29)とイエス様は言われます。つまり、すべてのことは、イエス・キリストを信じる信仰によってなされなければならないということなのです。牧師が、「自分が良い説教をして教会員を元気づけよう」「自分が来たことでバプテスマを受ける人が増えるようにがんばろう」と思ったり、教会役員が、「自分ががんばって教会を整えプログラムを充実させよう」と意気込んだり、教会学校のリーダーが、「自分のクラスが盛り上がるようにがんばろう」と思うことはよくあることでしょう。他の奉仕をされる方々も同じように思うこともあるでしょうし、それは尊いことだと思うのですが、もしそれが、神様の業を超えて、「自分が何かをしてやろう」という思いが潜んでいるならば、もはやそれは神の業ではなくなっているのです。それを神の業だと思い、神様が喜んでくださっているのだと勘違いしていることになってしまいます。「わたしを離れては、あなたがたは何もできない」(ヨハネ155)とイエス様はおっしゃっています。

 

もう一つの勘違いは、自分の思い通りにならない時に、それを理解しない他者を変えてやろうという思いを持つことにあるかもしれません。人は大なり小なり、自分の考えが一番正しくて、他者も皆その考えに同調すべきだと思ってしまうところがあって、何とかして相手を変えようと思います。それは神様のため、と言いながら、自分を正当化する勘違いです。「あなたがたは・・・心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマ122)と聖書は語ります。相手が変わらなければならないと思っている私たちですが、実は変わらなければならないのは自分自身なのではないでしょうか。自分が改革の担い手になりたいという思いがあるなら、唯一の改革の担い手は主であることを知り、主にゆだねなければなりません。

 

私たちは皆、神様の業が現わされるために用いられる器です。でも時折、器なのに自分が業を作り出している存在であると勘違いすることがあります。その勘違いは自分では気づきません。他者から指摘されてもかえって頑なになって耳を傾けられないことも多々あります。唯一私たちの勘違いを気づかせてくれるのは御言葉です。自分の知識や一人よがりの思いから解放してくれる御言葉を求めて歩んでいきましょう。

 

 

8月20日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

新たにうまれる」ヨハネによる福音書 3:115

ファリサイ派の指導者であるニコデモは、エリートであり裕福でしたが、人生に何か足りないものを感じていたのでしょうか。熱心なユダヤ教徒でしたが、神の国に入るということはどういうことなのか確信が持てずにいました。そこへイエス・キリストが現れ、どうやらこの人は神の国のことを知っているようなので会いたいと思います。でも熱心なユダヤ教徒にとってイエスは神の教えを惑わす者だと言われているので、そんな人に自分が会いに行ったことがわかったら自分の地位も名誉も吹っ飛んでしまいます。だからニコデモは人目につかないように、夜そっとイエスのもとを訪れます。神の国の真理を知りたいニコデモの心を見抜かれたイエスは、「新たに生まれなければ神の国に入ることはできない」と言います。「新たに」と訳されているギリシャ語には3つの意味があります。一つは、「初めから」とか「根本的に」という意味。二つ目は「2回目に」という意味。三つ目は「上から、即ち神から、神によって」という意味です。イエスがここで言っているのは、人は根本的に再び、神の力によって生まれ変わらせていただかなければならない、ということなのですが、ニコデモは2つ目の意味、即ち「2回目に生まれる」という部分についてしか質問しませんでした。だからこそイエスは、6節で「霊から生まれる」つまり神の力によって新たにされることを強調したのです。

ニコデモは一所懸命に律法を学び守ってきた人です。自分の力でがんばってきた人です。イエスが新たに生まれなければならないと言った時、自分の力では自分は変われないことを受け入れられなかったのかもしれません。イエスはそこで「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」と言います。人間の能力では、風がどこから吹いてきてどこへ行くのか、なぜそうなるのか、そのことを理解することはできないけれど、風が吹いたことはわかります。主の霊も同じように、人には見えないし、どうして人を生まれ変わらせることができるのか、それは誰にもわかりませんが、人生に現わされた主の霊の働きを見ることはできるのです。

新たに生まれ変われるということは、言葉で説明できないことかもしれません。主より賜る力をそのまま受け止めていくしかないでしょう。ニコデモはなかなかそれができませんでした。真面目で熱心だったからこそ、それがなかなかできませんでした。でも聖書を読むと、このニコデモもやがてイエスを受け入れたことがわかります。それがいつどのようにしてだったのかはわかりません。でもこのニコデモのように、私たちも、かたくなな肉の思いから解き放たれて、主の霊によって新たに生まれる者となりたいと思います。

 

 

813日 説 教 ―        牧師 山中 臨在

        「平和を脅かすのもの」

ローマの信徒への手紙2:9202324

聖書は、「正しい者は一人もいない。善人は一人もいない」(1012)「人は皆、罪の下にある」(9)と語ります。一所懸命正しく生きている人たちにとっては、反発や違和感を覚える言葉かもしれません。しかし、誠実で良い人であるあなたも、戦争を起こす人や凶悪犯罪人と変わらない罪びとなのです。とても厳しい言葉ですね。

ここで「人は罪の下にある」ということがポイントです。罪の「上」にはいない、つまり、罪の上にいて罪を自分でコントロールすることが人にはできない、ということです。「腐っても鯛」と言いますが、どんなに高価な鯛も、腐ったら食べられません。神様に愛され「あなたは高価で尊い」と言われる私たちも、罪に支配されると腐ってしまい、私たちの口を通して出て来る言葉は、腐食した遺体の臭気を漂わせる開いた墓のように、醜悪で呪いと苦みで満ちています(1314)。それはまむしの毒のように、人の命さえ奪うほど恐ろしいものです。その結果、私たちは他者の血を流し、その上を歩きます。血に塗られた、平和とはかけ離れた道を歩く私たちは「平和の道を知らない」(17)のです。血の道を歩く私たちを神様はどんなに悲しい思いで見ておられることでしょう。

平和を脅かしているものは、凶悪犯罪者や戦争当事国の為政者ではなく、実は私たち自身です。私のこの口が平和の道を閉ざしていたのです。それでは希望も何もないではないか、と思います。しかし聖書は希望の書です。私たちに主の希望を与える命の糧です。どこにその希望があるのか探してみましょう。18 節に、罪を犯す私たちは、「神への畏れがない」と語られます。畏れるとは、怖がる、ということではありません。人知を超えている神様を敬い、全面的に神様の支配に自分をゆだねることです。聖書が語るのは、神を畏れる生き方をするなら、あなたには平和の希望があるのだという励ましなのです。私たちに罪の自覚が生まれ(20)、罪を犯す私たちの口がふさがれます(19)。それは即ち、私たちの自分中心の思いが封じ込められ、私たちが平和の主のご支配の中で生きることになることです。罪の下にある私たちを、罪の上におられ、罪を支配される主が、平和へ導くようにコントロールしてくださるのです。救い主イエス・キリストの十字架の犠牲によって、罪ゆえに神様の栄光を受けられなくなっている私たちの罪を、主が担ってくださる、ということです。罪を犯す私たちが、イエス様の十字架によって罪を赦され、罪から解放され、平和を脅かす罪を持っている存在であるにもかかわらず、神様の平和の器として用いられる、ということです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって、ただ無償で与えられる恵みです(24)。なんと大きな神様の愛、なんと嬉しい希望でしょうか。

平和の希望を与えてくださるイエス・キリストを信じる人生を、ぜひ歩みましょう。平和の器として歩ませていただきましょう。キリストの平和を実現する教会として歩みましょう。

 

 

86日 説 教―           牧師 山中 臨在

平和がゆきわたりますように

マタイによる福音書5:9

平和を実現する者になりなさい、とイエス様は言われます。平和について知るだけでなく、平和を作りなさいと言うのです。イエス様のご命令に従うのが私たちの使命です。教会の使命の一つが、平和を実現することにあるのです。

「まっくろなお弁当」という実話に基づいた絵本があります。1945 8 6 日、広島に住む13 歳のしげる君は、原爆が落とされた時に、お母さんが作ってくれたお弁当を抱えたまま亡くなりました。弁当箱共々にしげる君の体も真っ黒になりました。お母さんが小さな畑で育てた野菜が入った色とりどりの弁当も、13 歳のしげる君の前にあった輝く未来も、一瞬にして真っ黒になり

ました。しげる君のお弁当が真っ黒になった同じ瞬間、「これで平和が実現される」と喜んだ人たちがいたことを、神様はどのように見ておられたのでしょうか。戦争はそれぞれが、自分の正義と自分の考える平和の実現のために、という名目で他者の命を傷つける恐ろしい行為です。

自分の安全安心を確保するために他者の命を傷つけることを平和と呼ぶ私たちの罪は、はかりしれません。「そんな罪人のお前たちに平和を作り出すことなど所詮無理だろう」と私たちをあきらめさせるためにイエス様は今日の御言葉をくださっているのではありません。その私たちの罪を自身が担うから、あなたたちは神の子となって、神に倣う者として平和を作り出しなさい、と言うのです。聖書は「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉に置いて敵意という隔ての壁を取り壊す」(エフェソ214)と言います。聖書が語る平和は、単に戦争がないということでも戦争から逃げてくるということだけでもありません。むしろ戦争のある所に行って、そこに平和を作り出すことです。そんなことは私たちにできそうにありません。でも、「人にはできないが神にはできる(マタイ1926)、だから神に信頼し神に委ねてひたすらに御言葉に聞きなさい、御言葉を生きて平和を実現する者になりなさい」と励ましてくださっているのだと私は思います。

お弁当の役割は、体の栄養を取ること、また、お弁当を作ってくださった人と食べる人との間の愛情を味わって喜びを得られるということ、更に、他者と分かち合うことができることにあると思います。花見とか運動会でみんなで一緒に食べて、その恵みを分かち合います。またお弁当を持っていない人がいたら「これどうぞ」とみんなで分け合うことができるものです。平和を作り出すために必要な栄養は、御言葉です。この御言葉をお弁当にして周りの人と分かち合いたいと思います。お弁当の具材は色とりどりです。でも他の人のお弁当を見ると、自分のとはまた違った具材がいっぱいで、それもまた互いに分かち合うならば、自分とは異なるお弁当の良さを体験し、喜びが広がります。他者との違いを喜び尊重しながら、キリストの平和が、争いの絶えない世界のすみずみに、そして争いの絶えない私たちの心のすみずみに、ゆきわたるように、心から祈ります。