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説教記録7月

730日 説 教 ―     説教 岸本敬子音楽主事

  「主に望みをおく」 哀歌3:1932

大国アッシリアを滅ぼしたバビロンが、ユダに向かって攻めてくる状況のなか、預言者エレミヤは神様のメッセージを国の指導者たちに伝えます。「ユダの希望は、エジプトと手を組むところにあるのではなく、イスラエルの神である主に立ち返るところにしかない!」と。しかし、国の指導者たちは、エレミヤの言うことには耳をかさず、「主に立ち返る」 ことはありませんでした。その結果、バビロンはユダを征服し、エルサレムを破壊しました。紀元前586年、イスラエルの民はバビロン捕囚として連れて行かれました。神殿が破壊された ということは、ユダの民の希望が破壊された ということです。

「哀歌」には、イスラエルが犯した罪によって、神様がくだされた裁きの結果と、その状況を見た作者の嘆きと祈りが綴られています。5章からなっていて、そのひとつひとつが「弔いの歌」、死者を弔う歌です。エルサレムが死んだのです。神様に立ち返らなかったために…。しかし、「哀歌」は、この悲惨な結果をただただ悲しんでいるだけの歌ではありません。そこには「希望」のメッセージがあります。エルサレムには、捕囚に引かれて行かなかった、まだ残っている民がいました。「哀歌」の作者は、エルサレムに残っている彼らに対して2 つのメッセージを送ります。

.罪がもたらす悲惨な結果を思い出しなさい 2.神に立ち返るならば希望がある というメッセージです。「罪がもたらす結果の恐ろしさ、および、神に立ち返ることによって与えられる希望」があるのです! 民の犯した罪に対して、神様は厳しく裁いておられますが、それと同時に、悔い改めて神様に望みをおく者に対して、愛と恵みを持って、神様は 必ず応えてくださる方です。

イスラエルの民が完全に滅ばなかったのは、主の恵みによるのです(申命記30110 のモーセの預言 「悔い改めるなら、イスラエルは回復される」)。その恵みは朝ごとに新しく与えられ、主のまことは力強く満ち溢れるのです。(23) 主こそ わたしの受ける分 とは、主こそ わたしにとっての希望の源である、という意味でしょう。それゆえ わたしは主を待ち望みます(24) とこの作者は応答しています。

主はわたしたちの苦難、悲しみを忘れずに覚えていてくださり、わたしたちが倒れても、くじけても、力と希望を与えて立ち上がらせてくださる方です。今がどのような状態であっても、あきらめず、主に望みをおけば、神様は必ず顧みてくださるのです。朝ごとに与えられる主の恵みによって、わたしたちは新たな力を与えられるのです。主に望みをおく魂に 主は祝福を与えてくださる(25)のです。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない(31)のです。神様は契約に基づいて罪を裁かれましたが、しかし、神様は悔い改めて立ち返る者に、契約に基づいて恵みを与えてくださる方なのです。 主の慈しみは深く 懲らしめても、また憐れんでくださる(32)、今日 懲らしめを与える神様は、明日 恵みと憐みを与えてくださる神様なのです。

生きていると、毎日様々なことが起こります。小さな悩みや苦痛であったり、ある時は大きな悲しみや落胆、失望にも襲われます。でも、あきらめず、ただただ神様に信頼して望みをおいて歩んで行きましょう。神様はあなたを放ってはおかれません。決して見捨てることはないのです。 必ず顧みてくださいます。

 

 

723日 説 教-        牧師 山中 臨在

土台」コリント信徒への手紙3:1017

人生において、しっかりした土台を据えることが必要であることを聖書は教えます。イエス・キリストという土台を無視して他の土台を据えていないか、と問うのです。土台は見えないし土台を据えることは地味で時間もかかります。だから人は地味な土台作りをいやがり、目に見える華やかな建物に目を注ぎます。この世の権力や出世、名誉、名声、お金、そういうものはしっかりとした土台の上に築き上げられるならば素晴らしいですが、それ自体は土台とはなりません。むしろそれらは、いざという時には脆いものです。

フランク・ロイド・ライトという有名なアメリカ人建築家がかつて帝国ホテルを設計しました。ライトはまさに「熟練した建築家」で、特に防災に関する思いが強く、土台作りを大切にしました。岩盤まで地面を深く掘って土台を据えたので、工事には時間と労力とお金がかかりました。経営陣とはそれが原因で対立が生じましたが、19237月に4年もの工期を経てライト設計の帝国ホテルは完成し、その年の91日に完成披露パーティが開かれることになりました。そのパーティの準備をしているその時に、関東大震災が起こります。東京じゅうの建物が倒壊する中で、土台をしっかり据えた帝国ホテルはほとんど無傷で残りました。また周囲の反対を押し切ってライトがホテルの前に作った池が、防火水槽の役割を果たし、火災の延焼を最小限に食い止めました。帝国ホテルが震災のための避難所として用いられたのは言うまでもありません。

人生には、神の知恵であるイエス・キリストという土台を据えることが大切です。この土台がなければ、信仰の成長も教会形成も伝道もできません。しかし私たちはついその土台を人間に置こうとしてしまいます。影響力の強い指導者の言うことや目に見える美しさや豪華さに関心を寄せたり、費用を削減するために大切な部分をないがしろにしようとする誘惑は常に潜んでいます。目に見えるものに心を留めて、地下に埋もれて見えない土台に注意を払いたがりません。日々御言葉に聞くこと、日々祈ること、礼拝すること、伝道すること、これらは人には全く見えない一見地味な土台作りです。でもパウロはこの地味な土台作りを大切にしました。それは、私たちは「神の神殿である」(16)からです。神殿はどんなに見た目が豪華で美しくても、土台がしっかりしていないと崩れ去るのです。

  そしてまた聖書は神殿について「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(619)と語ります。教会は神のものであり、私たち人間の栄光のためにあるのではありません。礼拝、教会学校、聖歌隊、役員会、予算計画、伝道集会、バザーなど、どんなプログラムも、私たちの気に入るように計画をするのではなく、すべてが神様に栄光を帰するものです。神殿ですから、神様を礼拝する人々の群れです。コミュニティセンターや同好会ではなく、イエス・キリストに土台を置く共同体です。人生の土台をイエス・キリストに据えるなら、揺るがぬ歩みを主が与えてくださいます。

 

 

716日説 教               牧師 山中 臨在

ふぞろいのクリスチャンたち

エフェソの信徒への手紙4:116

聖書は、教会(それを形作る一人一人)は、唯一の主である神を信じる信仰のもと、一つの希望、即ちイエス・キリストによる救いにあずかるように招かれていると語ります。牧師だけでなくすべての人が神から招き(召命)を受けています。招かれるということは、必要とされているということです。あなたを愛し、信仰の道へ招き、あなたにしかできない役割を与えてくださっているのです。「その招きにふさわしく歩みなさい」(1)と聖書が語ることは大切です。クリスチャンになったからあとは何もせずただ座っていればいい、というのではなく、歩きなさい、というのです。クリスチャンになったからこそ、いつも唯一の神の言葉に聞き、唯一の神に祈り、唯一の神を礼拝する歩みを続けるように招かれています。そして主イエスを信じる信仰によって一つとされている私たちの信仰が教会建築によって指し示されていきます。

そのために「霊による一致を保ちなさい」(3)と御言葉は語ります。しかしまた「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7)と言うのです。皆与えられている賜物はバラバラ、ということです。教会は一つですが、教会を形作る私たちはふぞろいなのです。ふぞろいの者たちを一つにすることは難しいですが、ここで大切なのは、「霊による」一致ということです。私たちは自分たちが頑張って一つになろうとしますが、私たちの力では一つになれないこと、神様の力に委ねなければ一致できないことを聖書は教えています。教会において「私はこれが好き」「私はこれがいやだ」と「私」が主語になっていると、教会は本来の目的と使命を見失っていきます。みんな一つになろうと思っているけれど、一つになる基準が自分にある間は一致ができません。ふぞろいの「私」たちがそれぞれ向いている方向が異なるからまとまらないのです。聖書は「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長しなさい」(15)と語ります。まさにこれが「霊による」一致です。すべては主の栄光のためであることが根底にないと教会は一つになれません。でも逆に言えば、頭である主イエス・キリストにゆだねてキリストに向かっているならば、ふぞろいの私たち一人一人を主はすべて必要とされ、ふぞろいの部分が「補い合ってしっかり組み合わされ結び合わされる」(16)ことによって、むしろ頑丈な体が出来上がっていく恵みを与えられるのです。キリストの体を造り上げる(12)という一つの使命を共有する時、ふぞろいであることは力であり、豊かさであり、喜びを与えてくれます。神が私たちをふぞろいに造ってくださったことは感謝すべきことなのです。

信仰歴、職歴、学歴、考え方・・・。教会に招かれている私たちは皆ふぞろいです。「私」のためではなく主の栄光のために、ふぞろいな私たちは頭であるイエスに向かって一つの体として歩んでいきましょう。

 

 

79日 説 教―               牧師 山中 臨在

お互いさま」ヨハネによる福音書13:1217

食事の席で突然、イエス様は弟子たちの足を洗い始めました。当時人の足を洗うのは奴隷の仕事だとされていましたから、師匠が自分の足を洗うなんて滅相もない、と思った弟子たちは慌てたことでしょう。なぜ弟子たちの足を洗ったのか、イエス様が語る言葉に聞いてみましょう。

まず、師匠としてイエス様は私たちがなすべきことの模範を示されたのです。イエス様は、仕えられるためではなく仕えるために来られたことを身をもって示されました。イエス様がしたとおりにする(真似する)、というのが大切な点です。イエス様がなさったとおりに人に仕えることは結構難しいのではないでしょうか。私たちは人の足を洗おうとする時、自分にとって足を洗うのに都合の良い高さとか角度とか力の入れようでやると思いますが、それは恐らく洗われる人にとって最も良い状態ではないのです。私たちは人に仕えた時に相手が文句を言ってきたりすると「なんだよ、折角親切にしてやったのに」と不満に思うかもしれません。でもイエス様はここで「徹底して」仕えることを私たちに教えています。イエス様が足を洗った弟子たちは皆、この直後イエス様を裏切ります。彼らの裏切りを知っていてもなお、イエス様は彼らの足を洗い、徹底して仕えることを示されたのです。弟子の足を洗うことは、イエス様が十字架の死を通して私たちの罪を赦されることを示しています。「イエス様のするとおりにすること」は実際私たちには無理です。しかしイエス様が私たちに示されたのは、その根底にある愛です。「イエスは・・・弟子たちを・・この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ131)とあります。仕えることは、人の足を洗うテクニックを身に着けることでもいやいやすることでもなく、他者を愛し抜くことであると私たちに教えているのです。

もう一つ、イエス様が「互いに足を洗い合わなければならない」(14)と言っていることが大切です。他者を愛して他者の足を洗うように仕えなさい、ということだけでなく、自分の足を他者に洗ってもらいなさい、ということです。自分の足を洗ってもらうことは結構難しいし恥ずかしいです。誰だって自分の汚い部分はできるだけ見られたくないと思いますね。実際以上に自分を良く見せたいと思うかもしれません。あるいはまた、自分の汚い部分を洗ってもらうなんて申し訳ない、と思うことでしょう。でもお互いさまなのではないかと思うのです。私たちは自分の隠したい部分を隠し通して生きることはできません。

人にお世話になり人の助けをもらうことなしに生きていくことはできないのです。神の国は、自分の弱さを他者と分かち合い、そのことのために祈り合い、助け合い、励まし合うことのできる恵みの場所なのです。愛はお互いさまです。愛されたことによって愛することを覚えます。愛し愛され、仕え仕えられて神の国は恵みが満ち溢れています。

愛をもって祈り合い、助け合い、励まし合うキリストの体となりたいと思います。祈られる恵みもありますが、祈る恵みもあるのです。お互いの祈りの課題を分かち合って祈り祈られる群れとなりましょう。

 

 

72日 説 教 ―             松﨑 準 牧師

「神様はぶどう剪定のプロ!?」

        ヨハネによる福音書 15:111

イエス様は私たちに、イエス様がぶどうの木で、私たち一人一人はその枝であると言います。枝はぶどうの木から養分を受けて初めて実をつけることが出来ます。私たちは、ぶどうの木であるイエス様の存在なしに、自分の力で実をつけることは出来ません。

しかし、2節で「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れなさる。」と言われます。自分は枝として実を結んでいないから、神様に取り除かれてしまうのではと不安になりませんか。この「取り除く」とは、農夫である神様がぶどうの枝の剪定をされる、手入れをされる、、、、、、、、、、、、、、ことを言っているのです。ですから、イエス様につながっているクリスチャンは、ぶどうの木の枝として神様から剪定されるということなのです。

私は、この神様の剪定(手入れ)とは、ある人たちは取り除かれ、ある人たちはさらに祝福を受ける、というような二元論的な意味ではなく、私たち一人一人の内面のことを言っているのではないかと思うのです。つまり、私たちの中に実を結ばせる良い面(枝)と、実を結ばせない悪い面(枝)があるということなのです。それは罪です。罪のない人は一人もいません。ですから、本来すべての人が神様によって取り除かれてしまう対象なのです。しかし、一方では、実を結ぶことが出来る良いところもある。だから、神様は私たちの中の悪いところを取り除き、良いところがさらに良くなるように手入れをして養ってくださるのです。

このぶどうの剪定というのは、プロでも悩む、難しい作業の一つだそうです。それぞれの木の樹勢(育ちぶり・状況)をよく見て、剪定の仕方を見極めていくのはとても難しいと言います。神様はまさに、私たち一人一人の状況を見極めつつ、絶妙に、愛情を込めて、大切に、手入れしてくださるのです。そして、この剪定は、主イエスの御言葉を通して実現されていきます。御言葉によって問われる時、耳が痛い、心良くない、と思うのは、もしかしたら自分の中の実を結ばない部分が取り除かれている時なのかも知れません。また、御言葉に励まされ、心が燃やされる時は、自分の中の良い枝が伸ばされているのかも知れません。だから、私たちは御言葉を真剣に受け止めなければなりません。御言葉の自分に都合の良い部分だけを聞き入れるのではなく、都合の悪い部分も素直に受け入れ、悪い部分が切り落とされていくことが大切だと思います。

そして、最も大切なことは、4節にあるように、イエス様につながることです。この「つながる」という言葉は他に、留まる、住む、内在する、などと訳すことが出来ます。しかも、この言葉は今日の箇所の中だけでも10 回も出てきます。それだけ、大切な言葉だということなのです。

私たちは自分の努力や頑張りで実を結ぼうと思う必要はありません。実を結ばせるのはぶどうの木です。私たちがすべきことは、イエス様につながり続け、留まり続けることです。しかも、それさえも農夫である(剪定者である)神様が支えてくださるのです。