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説教記録6月

625日 説 教―           牧師 山中 臨在

    「学ぶ」 マタイによる福音書11:2530

イエス様は「わたしに学びなさい」と言います。「学ぶ」と訳されているギリシャ語は「弟子になる」という意味なので、イエス様は私たちに、ご自分の弟子になって、イエス様のように生きなさい、と言われているのです。それによって、人生の重荷を負って疲れている私たちに主は安らぎを与えてくださいます。

疲れている私たちを休ませてあげるとイエス様は言いますが、これは「新しく新鮮な命を与える」という意味なので、ただ何もしないでいて一時的な疲労回復が得られるということではなく、根本的に造り変えられて常に憩いの安らぎが与えられることを意味します。そのためには、イエス様の招きに応えて彼のもとに行くことが必要です(28)。イエス様に倣って、天地の主である神様を父と呼び、神様を礼拝し、御言葉に聞き、祈る中で、新鮮な命を主が与えてくださることを心に刻みたいと思います。

もう一つイエス様はおかしなことを仰います。安らぎを与えるために「わたしの軛を負いなさい」と言うのです。私たちが人生の重荷を負う時、イエス様が私たちと一緒に軛を負ってくださるなら、一人で背負うよりも負担が半分になって楽になりますからありがたいのですが、しかし重荷が半分になってもまだ結構重いので、それで安らぎを得られるとは思えません。また、二人で軛を負うということは、二人三脚のように二人が固定されていて、歩調を合わせて歩かなければつまずいてしまいます。結構不自由でバランスを取るのも難しく、かなり疲れるでしょう。安らぎとは程遠い気がするのです。

もう一度聖書をよく読んでみると、イエス様は「あなたの軛を私も一緒に負ってあげるよ」とは言っていないことに気づきます。「わたしの軛を負いなさい」と主は言うのです。実は私たち自身の重荷はいつのまにかイエス様が代わりに背負ってくださっていて、いつのまにか「私の」軛ではなく、「イエス様の」軛となっていたのです。そして「あなたの重荷を背負っている私の軛を私と一緒に負ってほしい」と言うのです。それはイエス様が単なる救い主ではなく、「私の個人的な」救い主となって個人的に親しい交わりをしてくださっていることを私たちが忘れないためです。「私の軛は負いやすい」と仰るイエス様。軛に負いやすいも負いにくいもないだろうと思いますが、イエス様の軛は、私たち一人一人の状況を理解し配慮してうまくフィットするように作られたものです。圧迫骨折をした私の母は、母専用のコルセットを作ってもらい、コルセット自体は重いし窮屈な感じもありますが、今の母の体と骨の状態に合わせて作られているので、痛みが軽減されて安らぎを取り戻せました。イエス様の軛は負いやすく荷は軽いというのはこういうことなのではないでしょうか。

イエス様に学びイエス様に倣って、父なる神を礼拝する者として生きましょう。私の重荷を自ら背負ってくださるイエス様と共にある時、真の安らぎを与えてくださる主に感謝して歩みましょう。

 

618 説 教―             牧師 山中 臨在

  「信仰のライセンス」 

      ローマの信徒への信徒への手紙10:1421

  先日受けた免許証更新の講習会は私にとって有意義でした。退屈だろうという予想に反し、40年の運転経験を経た今、私が改めて見落としていた事柄を再発見できました。免許証がなければ車の運転はできませんが、免許証があるからといって運転を知り尽くし運転を究めたわけではありません。免許更新講習の講師の言うことに耳を傾けなければとんでもない悲惨な事故を起こしてしまうこともあります。運転免許は車を運転する初めの一歩にすぎません。

信仰も似ています。バプテスマを受けた、あるいは教会に来ているからと言ってそれで信仰が完成するわけでも神様の御心を知り尽くしているわけでもありません。「信仰は、イエスの言葉を聞くことに始まる」と聖書は語ります。御言葉は時として難しく、あるいは退屈に思えることもあるでしょう。しかし御言葉をじっと聞かなければ、主の恵みを発見するチャンスを逃してしまいます。信仰歴が長く聖書のことは知り尽くしていると思っている人には「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(コリント82)という言葉が投げかけられます。御言葉は時としてこのように厳しいですが、厳しい御言葉からは目を背け、自分にとって都合のよい御言葉だけを選んで聞こうという誘惑から解放してくれます。

聞くということは、自分が黙るということです。黙って聞くのは案外難しいでしょうが、黙らなければとりこぼしてしまう御言葉がたくさんあります。神様は、私たちが神様の方を向いていない時も絶えず御言葉を与えてくださっているのです。神様は一日中、神様の方を向くことを忘れた者にも手を差し伸べておられます(21)。聞かない私たち、黙れない私たちに近づいて御言葉を与えて下さっています。それは罪深い私たちを裁く手ではなく、忍耐強く主に立ち返れと言ってくださる手です。

忙しい日々の中で、御言葉にじっと聞いていない自分を思います。そこに主が手を差し伸べてくれているのに、「はいはい、あとで聞きますから・・・」と主を横切っていく自分を感じます。皆さんの中にこれと似たような思いがあるなら、今日悔い改めて、まず御言葉の前に黙ることから始めてみませんか。

信仰にライセンスがあるとすれば、それはイエス様御自身です。私たちの努力で得たものではありません。イエス様はあなたのために十字架にかかって死んでくださり、それによってあなたに救いの道を与えてくださいました。またイエス様はいついかなる時も御言葉を与え、あなたを捉えようとじっと手を差し伸べて待っていてくださいます。信仰の第一歩である信仰のライセンスが与えられているからこそ、私たちに既に与えられているイエス様の恵みを再発見するために、主の御言葉に聞き続ける者でありたいと思います。

 

611日 説 教―             嶋田和幸 宣教師

「祝福は全地に」 マルコによる福音書6:3044

マルコ福音書6章「5千人の給食」の記事の中で、イエス様のところに集まった多くの群衆は、夕方になり疲れ、お腹を空かせていました。聖書には、男性が5千人と書かれていますので、女性や子どもも合わせれば、1万人近くの人々がいたでしょう。弟子たちが持っていたのは、5つのパンと2匹の魚だけでした。イエス様はパンと魚を取り、そして天を仰いで祝福を求めて祈りました。そして、パンを裂き、弟子たちに渡しました。魚も、同じようにされました。すると、なんと、全ての人々が食べて満腹したのです。

この記事は、神様の祝福について、現在を生きる私たちに、多くのことを教えてくれます。弟子とは、イエス様を信じ、従う者たちです。ですから、弟子とは、現在においては、イエス様を信じ、従うクリスチャンのことを指しています。それでは、弟子たちが持っていた、5つのパンと2匹の魚は、私たちにとって、何を表しているでしょうか?それは、日ごとの食料はもちろんのこと、私たちが購入したもの、お金や時間、更に、私たちが持っている様々な能力や経験、賜物もそうです。つまり、5つのパンと2匹の魚は、神様の祝福が具体的になったものを現わしています。それらは、元をただせば、神様から頂いたものです。ですから、私たちが持っているものは、全て当てはまるのです。

イエス様は、弟子たちからパンと魚を取り、祝福し、裂いて、そして与えられました。ここに、祝福の法則がはっきりと描かれています。私たちが持っているものをイエス様にささげる時、つまり、イエス様が望む時に、イエス様が望んでいる場所で、イエス様が望むようにささげる時、ささげられたものが祝福されます。その祝福によって、ささげられたものは増え広がり、私たちを通して、多くの人々に流れていくのです。

イエス様が、全く同じやり方でパンを扱われた場面が、もう1つあります。それは、イエス様が十字架にかけられる直前、12人の弟子たちと食事を取られた時です。裂かれたパンは、イエス様のからだが、十字架につけられることを前もって現わしています。イエス様は、体を鞭で痛めつけられ、肉が裂けるほど傷つけられ、十字架につけられました。それは、イエス様ご自身のからだを、私たちに与えるためであったのです。イエス様のからだとは、信じる者全てに与えられる、イエス様のいのちです。イエス様は、ご自身のいのちを私たちに与えるほどに、私たちを愛されました。だから、私たちはその愛に応えて、イエス様からいただいたものすべてをささげ、イエス様が望むように、他者と分かち合っていくのです。

主は日々、皆さんに新たな祝福を与えられています。その祝福は、皆さんのためだけに与えられているのではありません。神の祝福を必要としている方々に、届けられるためです。皆さんは、何を分かち合うことができるでしょうか。

 

64日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

   「あいつのことは愛せない」

ペトロの手紙()4:711

あなたには愛せない人や、苦手で付き合いたくない人はいますか。自己中心の私たちは他者を愛せません。そして悩みを抱え非常につらく苦しいと、それを他者のせいにしたり他者を裏切ったりしてしまいます。聖書は、そうならないために「身を慎んで、よく祈りなさい」(7)と言います。「身を慎む」とは、元来「酒に酔わず、目覚めてしっかりと目標を見る」という意味で、本来の目標である神様を見て神様との交わりに目覚めていることです。そのような慎みのある生活は、祈りの方向に私たちを導きます。

「心を込めて愛し合いなさい」(8)と聖書は語りますが、嫌いな人を「愛せ」と言われたからと言って急に好きになることはできないし、「愛し合え」と言われても、私と敵対している人を仮に私が頑張って愛せたとしても、相手が私のことを愛するようにすることは私にはできないと思われます。しかし「愛は多くの罪を覆う」(9)という言葉が心に留まります。私たちにはそれぞれ神様から賜物を授かっている(10)のですが、最大の賜物はイエス・キリストを通して現された主の愛です。イエス様の愛が私たちの罪を赦されたように、私たちが人を愛する時、その愛は相手の罪を覆うのです。私たちの愛の思いや行動を通して、頑なだった他者の心が和らげられ、他者の心にも愛が芽生えていくことを聖書は教えているのではないでしょうか。それをさせるのが祈りです。私たちには愛する力はありませんが、愛の神様に向かって祈る時に、主が愛を注いでくださるのです。

私たち一人一人に神様が与えてくださっている賜物があります。その「善い管理者になりなさい」(10)と聖書は言います。管理者というのは、主人から預かったものを主人のために使う人のことです。私たちは自分に与えられた賜物を自分のために使おうと思います。でもそうではなく、それを他者に仕えるために使いなさいと聖書は言うのです(10)。そこに主の愛が表され、私たちが互いに愛する者と造り変えられます。半身不随の義母の介護をしていた義父が破裂骨折を起こして急遽入院・手術することになり、それは妻や私の生活に大きな影響を及ぼしました。その様子を見てある方が、自分の車を使ってください、と貸してくださいました。とても助かることでした。でも自分の車を貸すのは大変なことだと思うし、借りる私も恐縮して申し訳ないと思っていたのですが、そんな私にその方は「使ってもらってこの車も喜んでいます」と言われました。なんて愛に満ちた言葉なのだろう、と私はただただ感激して主に感謝しました。目の前に突き付けられた現実を受け止めきれず、苦しみを他者のせいにして、愛する思いからかけ離れていた私に、主が示してくださった愛の言葉でした。

「あいつのことは愛せない」と思う時、愛する者と変えていただくように、目を覚まして祈りましょう。キリストの愛を表す教会になりましょう。