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説教記録5月

528日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

  「万事を益に」ローマの信徒への手紙 6:2630

あまりにも苦しくて切羽詰っている時、どんなふうに祈りますか。落ち着いて祈ることができたらいいのですが、「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と書いてあるように、祈りの言葉が出てこないこともあるかもしれません。ある教会のA牧師はガンを患い、最初のガンが転移してその治療のため入退院を繰り返しておられました。ある時、A牧師がベッドの上で激しい痛みに襲われ、看護師さんが駆けつけて痛みは5分くらいでおさまったのですが、それから数時間後に前よりも更に激しい痛みが襲ってきて、吐血し、特別な部屋に移され体中に管をさされ、「もうこれでおしまいなのか」と思う状態にまでなりました。この出来事のあとA牧師は、「私はどんな状況にあっても神様への祈りはできると自負していました。しかしそれは自分の信仰の傲慢でした。『神様助けてください。この痛みから解放してください』のひと言が出てこないのです。口をついて出てくるのは、「うぅ痛い、苦しい、あぁ」という「呻き」のみでした。人間は弱いのです。私の口から出た「呻き」は私の内に生きて働かれる聖霊によるとりなしの呻きであったことに気づきました。神様の憐れみに感動。」A牧師は傲慢な方ではなく、非常に謙虚な方なのですが、その方が「自分の信仰は傲慢だった」とおっしゃったことに驚きました。

いざという時に祈れない私たちのために、聖霊は、苦しむ私たちの呻きの中に共に生きてくださり、万事が益となるように共に働く、と聖書は語ります。聖霊は苦しむ私たちの「心を見抜き」(27)、それに対する神の御心が何であるかをご存知(27)です。だからとても益となるとは思えないような事柄をもすべて、最善に導いてくださるのです。改めてその恵みの深さを教えられました。

あなたには苦しみや悲しみがありますか。この教会に与えられている課題やチャレンジは何でしょうか。その苦しみをいやしてください、と言葉に表して祈れない時にも、聖霊があなたの呻きと共にいて、あなたを執り成してくださいます。だからこそ祈らなければならないのです。だから祈祷会に来てほしいのです。人前で祈るのが恥ずかしいから、という人も多いと思いますが、私たちは美しい言葉を用いてかっこよく祈ろうとする必要がないのです。むしろ、「うぅ痛い」「あぁつらい」そんな呻きを神様にストレートにぶつけるのが誠実なことだと思います。どう祈ればいいかわからないあなたの心を聖霊が知っておられるのですから、祈りを言葉に表せないならば言葉に出さなくてもいいのです。むしろ他者があなたの代わりに、またあなたのために祈ってくださるその祈りに心を合わせていればいいし、それがあるからこそ祈り会に来て共に祈ることが大切です。

ペンテコステ(聖霊降臨日)の日、「一同が一つになって集まっている」(使徒21)ところに聖霊が降りました。私たちも一つとなって祈りましょう。祈れず弱い私たちを聖霊が「助けて」くださる(26)とありますが、「助ける」とは「(私たちに)代わって」という意味が含まれています。何と嬉しいことでしょう。

 

521日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

    「どうにもとまらない」

   使徒言行録28:1731

パウロは伝道に召命と情熱を持ち、ローマに伝道に行きたいと切望し何度も計画を立てましたが、その道がなかなか開かれませんでした。それどころか、エルサレムでパウロは逮捕されてしまいます。ところが尋問を受ける中でローマ皇帝のもとに出廷するように命じられ、囚人としてではありましたが、神様

によってパウロはローマへ行く道が開かれました。八方塞がりだと思える時にも、福音宣教の力は人間にはどうにも止めることはできませんでした。

しかしローマに行くためにパウロたちの乗った船が暴風に遭って、乗員はパニックに陥り、ローマにたどり着くどころかその前に命が失われそうな絶体絶命のピンチに見舞われます。その混乱の中で、パウロは全員に向かって、福音を伝え、真の神様が一人残らず助け出すから恐れてはならないことを語ります。結局船は大破してしまいますが、乗員は全員無事でした。パウロの説教を聞いて立場の違う乗員たちの間にも和が芽生えたことでしょう。こんな状況でも福音はどうにも止まらなかったのです。

無事にローマに着いたパウロは囚人なので見張りが常につけられていますが、自分の家に住む自由が与えられました。むしろ、護衛がついているので身の安全が確保されているという恵みがあったのです。しかもその家は「大勢が」入ることのできるほど大きな家で、パウロは多くの人に福音を語ることができました。更に囚人としてローマに送られたので、ローマへの渡航費用もかからなかったと思われます。困難極まりない道でしたが、必要なものはすべて与えられました。こうしてローマにやってきたパウロはそこにいるユダヤ人たちに福音を伝え、ローマで福音の扉が開かれたのです。彼は朝から晩まで神の国を証ししました。福音を語るのはパウロの力ではありません。福音の力は止められないのです。

伝道するのは恥ずかしいし、それで人がイエス様を信じないと心が折れそうですね。しかしそんなことは問題ではありません。福音を力強く語ったパウロの話を聞いても信じない人は多くいたのです。伝道の結果の責任を私たちが負う必要はありません。私たちはただ、止まらない福音の力にゆだねて、福音を

語ることが期待されています。

つらくて、苦しくて、弱くて、とても教会生活はできない、伝道などできない、人間の思いはそうなります。しかし主は「時が良くても悪くてもみことばを宣べ伝えなさい」と言います。むしろそんな時こそ福音の力が必要だと迫ります。「どうにも止まらない」という歌は「噂を信じちゃいけないよ」と始ま

りますが、人の噂や知識で福音の力は推し量れません。ただただ神様を信じ神様にゆだねて祈る時に福音は前進します。

品川教会に与えられているたくさんの課題を直視すると、とても伝道する力など出て来ないと思えるかもしれませんが、私たちが福音を止めようとしても福音の力は止まりません。その福音の力に乗っかって、万事を益としてくださる主にゆだね祈って、福音宣教のわざに邁進していきませんか。

 

514日 説 教―           村中 範光 先生

ペテロの歩み、私の歩み

       マルコによる福音書14:6672

聖書を読むとき、登場人物の歩みや背景に注目すると面白く聖書が読めるかもしれません。一つの例として福音書に出てくるペトロ(口語訳と新改訳ではペテロ)についての3つのシーンから見てみましょう。イエス様とペトロの初めての出会いは「わたしについて来なさい。」とのイエス様からの呼びかけがきっかけでした。このイエス様による召命に応えて、ペトロはすべてを捨ててイエス様に従いました。3年間ほどイエス様と行動をともにしたのです。

ペトロに関しての記述で重要なのが2番目のシーンで、イエス様の「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」との問いかけに「あなたは、メシアです。」とイエス様を救い主として告白するシーンです(マルコ82730)。イエス様こそ預言されていた救い主と12使徒の中で初めてそして公然と告白しました。このシーンはペトロが12使徒の中でも中心的存在であることを明らかにするシーンです。

しかし3番目のシーン(今日の説教個所)ではそれまでのペトロの真逆の姿が映し出されます。イエス様がどうなるのか様子を見に来たペトロを仲間だと詰問する人々に、ペトロは3度知らないと答えます。最後には呪いながら誓ってまで知らないと答えています。イエス様が処刑され、自分たちも同じ運命をたどるかもしれないという現実に直面し、死への恐怖を覚え必死に知らないと言い張るペトロを初め、現実に直面すると神に背を向ける使徒たちにイエス様は「あなたがたは皆わたしにつまずく。」と予告されました(マルコ1427)。

このペトロにイエス様はどのようにかかわられたのでしょうか。イエス様は彼らを見捨てたり、切り捨てたりせず、赦しと寄りそう心で接してくださったことが主の晩餐のシーンで明らかになります(マルコ142226)。ペトロやイスカリオテのユダなどの背信行為をイエス様はご存じで、一人として排除することなく主の晩餐を使徒たちと一緒にお祝いしました。

イエス様は弱さを決して非難否定せずに赦しをもって寄り添ってくださることを使徒たちが確信したのは、復活されたイエス様が使徒たちに姿をお示しになった時です(ルカ243649)。背信への自己嫌悪と絶望のなかで「崩れ折れ(「いきなり」との新共同訳は正しく訳されていない)泣き出した悔い改めのペトロにとっても赦しと救いの瞬間だったのではないでしょうか。

ペトロに示されるわたしたちの神への背信の弱さをイエス様は知りつつ悔い改めの涙を流す私たちを赦し寄り添ってくださいます。

 

57日 説 教 ―              牧師 山中 臨在

さあ、お祝いだ!」 ネヘミヤ記8:112

バビロン捕囚によって破壊されたエルサレムの城壁再建工事は、敵の妨害など数々の困難が立ちはだかっていました。ネヘミヤが悲しみ何日も祈った結果、神様の不思議な導きによって再建の道が開かれ、エルサレムの城壁は52 日間で再建されました。この奇跡的なわざを見た人々は、神様の導きに応答し、礼拝をしました。

彼らは「一人の人のようになって」(1)礼拝しました。礼拝者は一つとなることが大切です。いろいろな違いを持つ私たちは、唯一の真の神様を見上げるという一点で一つとされなければなりません。前奏に合わせて共に礼拝の備えをする、賛美歌を共に歌う、主の祈りを声を合わせて祈る、共に御言葉に聞く、祝祷から主の祝福を携えて世に遣わされる、これらすべてのことにおいて皆が神様を見上げて一つとなっていなければなりません。

城壁の完成という驚くべき神様のみわざに触れた民は、まず神様の前にひざまずき、御言葉に耳を傾けました。夜明けから正午まで御言葉に聞いた(3)とありますから、かなりの時間を御言葉に聞くことに費やしています。日頃忙しい私たちは、御言葉にじっくりと聞き、御言葉に集中しているでしょうか。礼拝の中心は御言葉です。御言葉を聞くことなしに、信仰生活や教会形成は成

り立ちません。役員会や委員会、各会の活動もバザーも、会堂建築も、まずは御言葉が何を語りかけているのか聞くことなしに進めることはできません。

聖書が語るもう一つの大切なメッセージは、礼拝は喜びのお祝いであることです。問題が山積みとなり、先が見えない日常の不安や恐れがある時も、まず喜んで礼拝しなさいと聖書から励まされているように感じます。御言葉にじっくり聞いたエルサレムの民は、両手を挙げて、アーメンと唱和(6)しました。礼拝の喜びと賛美の様子がここに描かれています。ネヘミヤとエズラは「悲しんではならない。主を喜び祝いなさい」と民に言いました(10)。泣いていた民(9)に向けて語られたのかもしれません。御言葉を聞く中で彼らは、自分の罪を思い出して泣いていたのかもしれません。民の中には人知れず悲しみのある人もいたでしょう。私たちも礼拝をささげる時、悲しんでいる人が隣にいることもあるかもしれないし、自分自身が悲しみの中にいるこもあるでしょう。しかし困難の中にも主がイスラエルの民を見捨てず、悲しみを喜びに変えてくださったように、私たちの悲しみを全てご存知の主はいつも共にいて希望の御言葉を与えてくださいます。悲しむ人と共に、悲しみを喜びに変えてくださる神を礼拝することを、主は求めておられるのではないでしょうか。イスラエルの民は礼拝の後、帰って皆で食事を分かち合い、大いに喜び祝いました(12)。これは単に食事の分かち合いだけではなく、御言葉の分かち合いを通して喜びがあふれたことを示しています。

私たちも礼拝を通して与えられた主の恵みを他者と分かち合いましょう。共に喜びのお祝いをしましょう。主を喜ぶことこそ、福音宣教の原動力ではないでしょうか。