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説教記録4月

430日 説 教-        牧師 山中 臨在

神様との格闘」創世記32:2333

今日はヤコブという人の話です。ヤコブは、双子の兄エサウをだまして裏切りました。そのことでエサウはヤコブをとても憎み、殺意を抱きました。ヤコブはそんな兄から逃げるために、生まれ故郷を出て行きました。新しい土地でヤコブは家族ができ財産も築きました。20年経ったある時、神様はヤコブに「生まれ故郷に帰って兄に会いなさい」と言います。20年も経っているとはいえ、自分を殺そうとした兄に会うのは怖いヤコブです。あらかじめ兄にたくさんの贈り物を贈って兄の機嫌をとろうとしたり、兄が自分たちを攻めて来ても、全員が死ななくてもよいように自分たちをいくつものグループに分けてみたり、あれやこれやと作戦を練ります。でも不安はなくなりません。結局家畜も家来も家族も自分より先に行かせ、自分は一番後から兄の所に向かうことにするほど臆病になっています。どんなに頑張ってみても、人間の作戦には限界があり、そこから本当の平安を得ることはできないのです。

恐怖におびえるヤコブはある夜、何者かと格闘しました。格闘の相手が誰か明確に書かれていませんが、「お前は神と人と闘った」(30)とか「わたしは・・神を見た」(31)という記述から考えると、どんな形にせよヤコブは神様と格闘したのだと思われます。この人が格闘している時にヤコブの腿の関節をはずしました。腿の関節は体全体を支える大切な部分ですから、はずれると一人では立てなくなってヤコブはダウンしてこの格闘には負けることになります。自分で立てなくなったヤコブは、恐れを抱く兄と対面するにあたりあれこれと作戦を立ててみるけれど不安がなくならない彼自身の心を表すようです。その時ヤコブは必死にその人につかまり夜どおし(25)離しませんでした。倒れないように必死に神様にしがみついたのです。私たちにも、一人では立てない時があります。もうダメだと思うそんな時には、神様に必死にしがみついて離れないことが大切です。それはたゆまぬ祈りであり、御言葉を求める真剣さでもあるでしょう。自分が弱くされて神様に頼ることは恥ずかしいことではありません。自分の弱さを認めた時こそ神様の力をいただける恵みが注がれます。

あなたが一人では立てないということは、言い換えれば、あなたは一人ではなく、いつも神様が共に立ってくださる、ということです(物理的に立つ、という意味だけではありません)。ヤコブはこの時「あなたの名はイスラエルと呼ばれる」と宣言されましたが(29)、これは「神が闘う」という意味です。私たちに恐れや悩み、痛みや苦しみがある時、神様はその私たちと同じ土俵で共に戦ってくださるのです。私たちを見捨てません。助けはいつも神様の手の中にあります。だから私たちはいつも神様にしがみついて離れないように一緒に歩きたいのです。

 


423日説 教          牧師 山中 臨在

  「手柄横取り」 ヨハネの黙示録4:911

人には大なり小なり、人からほめられたい、認められたいという欲求があるように思います。他者との比較がそれに加わることもあります。他の人より自分がほめられたいと思ったり、あるいは他の人が褒められることを快く思わずに、自分のほうが褒められる価値があるはずだという思いも潜んでいるのかもしれません。そのことが他者との摩擦を生み、人間関係がこじれることにつながってしまうこともあるでしょう。

その問題を解決するのは、礼拝することだと聖書は教えます。聖書は徹底して、礼拝の大切さを語ります。今日の箇所に描かれる「玉座に座っておられる方」は全能の主なる神様、「これらの生き物」とはこの章の前半に描かれていますが、すべての被造物を表しているのではないでしょうか。そして24人の長老とは、ヨハネにとっては、現存する神の民をイメージしているのではないかとする説が有力のようですが、教会(信徒)を表していると考えるとわかりやすいかもしれません。

教会(を形成する一人一人)には神様からの賜物が与えられています。その賜物が豊かに用いられる時、人の心が動かされ、その中で「あなたのその賜物はすばらしいですね」という人からの賞賛が生まれることもあるでしょう。そのこと自体は悪いことではありません。しかし、その賜物は神様から与えられたものであることを忘れてはなりません。人からの賞賛である「冠」を主の前に投げ出しなさい、主の前にひれ伏しなさい(10)と聖書は語ります。これが礼拝の本質です。そして「主なる神様こそが、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方」(11)であること、即ち私たち自身の栄光ではなく、神様がほめたたえられることが私たちの目的であるというメッセージを私たちに送っているのです。私たちは、自分の冠(誉れ)は神様(の御心)によって造られたものであることを覚えることが大切です(11)。神様の栄光を自分の手柄にすることはできません。

私たちは自分の手柄を欲しいと思うけれど、それを神様の前に投げ出して礼拝されるべき方を礼拝した時に、自分の手柄を握りしめていた時には得られなかった喜びと平安を与えられるのです。もう人と比べて一喜一憂する必要はありません。他者と比べて自分の価値を見出そうとして自分の手柄に固執してがんじがらめになることから解放されます。礼拝し神様に栄光を帰する時、「あなた」というかけがえのない価値を神様が与えてくださっている恵みに気づき喜びが与えられます。何と嬉しいことでしょうか!

 

416日 説 教―  牧師 山中 臨在

今どきアナログ?」ローマの信徒への手紙12:1112

4月の御言葉として今日の箇所を与えられました。12節は私たちが2年間年間聖句として歩んできたものですが、12節で語られる主の希望をいただくためには、11節に書かれていることを知ることが大切です。

1年前のイースターに5000枚のチラシを配りました。今どき、チラシを配るなんてアナログな方法をしていることにどれほど意味があるのかと思った方もいたでしょう。そのチラシを見て8名の方が初めて礼拝にいらっしゃいました。5000枚配って8名来られたことは、数字の上では非効率的かもしれません。しかし8名の尊い命と出会わせていただいた神様のわざはすばらしいのです。私たちが8名を多いと思うと思うまいと、主の御心が必ず成りますから、私たちは、「怠らずに励みなさい」(11)という聖書のメッセージに従って、主が私たちに示されたことに励んでいくことが大切です。

「怠らないで励む」とはどういうことか、それを考えるヒントになるのが「主に仕えなさい」(11)ということです。これは「時に仕えなさい」と記している別の写本もありますが、時間を私たちの主人である神様の御用のために捧げるということです。それほど神様と親密な交わりをしなさいということなのです。私たちが神様の思いを知るためには、神様とたっぷり時を過ごすことが必要です。神様の思いは、聖書に書かれています。御言葉とたっぷり時間を過ごす中で、神様と親密な交わりができ、神様の思いを知ることができます。神様と親密に過ごしていなければ、神様が何を語りかけておられるのか確信が持てず、疑ってしまいます。だから神様の思いを信じることができなくなります。聖書の文字面をただ表面的になぞっても、神様の思いはわかりません。今はデジタルの時代、聖書ももうネットで読むことができます。聖書「について」知ろうと思えば、ちょっとネットで調べると、ある程度の聖書に関する情報は得られます。でもスマホ上で手軽な神様と手軽に接していただけでは、神様との親密な関係は築いていけません。

神様の御心がわかりません。だから「怠らずに」神様と親密な、アナログな関係を結んでいくことが必要です。

「今どきアナログ?」と思われるかもしれませんが、今だからこそ、神様とアナログな結びつきが大切なのではないでしょうか。そのために聖書は「たゆまず祈りなさい」と語るのです。神様のほうでは、私たちを手軽な存在として扱うのではなく、かけがえのない存在として愛してくださっているのです。そのために自らが十字架にかかって私たちを救い出すほどに、超アナログな愛を私たち一人一人に注いでくださっています。

神様と親密になればなるほど、神様が備えてくださる希望を信じる思いが強められます。今こそ私たち教会も、心を合わせて、たゆまず祈りつつ共に信仰の道を歩みましょう。

 

49日 説 教 ―         牧師 山中 臨在

「かけがえのないあなたへ」 イザヤ書 43:14

 聖書は、イエス・キリストの十字架の死と復活を語ります。なぜイエス様は十字架にかからなければならなかったのでしょうか。また、復活されたのはなぜでしょうか。

復活したイエス様は弟子たちに「あなたがたより先にガリラヤに行く。そこで会おう」(マタ287)と語ります。ガリラヤとは、弟子たちがイエス様と出会った場所です。人々の日常の暮らしがあった所です。日常生活には様々な

喜びと苦しみがあります。漁師だったペトロたちがイエス様に出会った時、彼らは魚がまったく取れないという絶望の中にいました。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。火の中を歩いても、炎はあなたに燃えつかない」(イザヤ432)と言う神様。水や炎は時として測り知れないほど恐ろしい力をもって私たちの人生に襲いかかります。私たちの日常にあるその恐れや苦しみを自ら体験するため、イエス様ご自身が、最も酷い死の痛みを背負ってくださいました。だから十字架でなければならなかったのです。私たちの痛みでイエス様の知らないものはありません。水や炎がとりまく私たちのガリラヤにイエス様は「先に」行かれ、共にいてくださると聖書は言います。主を信じる者には恐れや痛みの先に主の希望があることを、復活されたことによって教えてくれました。人の痛みや苦しみを先に経験し、私たちに先立って苦しむ者を平安な道に導いてくださるのです。

 主の十字架と復活は「あなたの」ためです。なぜそこまでしてくださるのでしょうか。それは神様の目にあなたが高価で尊いからだと聖書は言います。高価とはどれくらいの価値のことでしょうか。

 一万円札は、新札の時も、しわくちゃになった時も、踏まれて汚れてしまった時も、一万円の価値は失われません。神様が与えてくださった私たちの人生も一万円札のようなものだと思うのです。私たちの人生には、喜びにあふれてイキイキとしている時もありますが、人生の歩みの中で世間にもみくちゃにされ、人に踏みつけられ、傷ついたりもう自分は汚れてまって何の価値もないと思うこともあるかもしれません。しかしどんな時も、あなたは神様が与えてくださったあなたという価値を失いません。世間があなたをどう評価しようと、神様の価値は揺るぎません。あなたが嬉しい時も苦しい時も、成功しても失敗しても、100 点取っても0 点取っても、健康な時も病気の時も、あなたは尊いのです。

 聖書が語る「高価(値高い)」とは、「至高の」価値、神様が与えてくださった、「かけがえのない」価値、ということです。それは私たちが神様に目を注いでいなければ知り得ないものです。あなたにそんな価値を与え愛してくださるゆえに、主は十字架にかかり復活して、あなたの痛みを負い、恐れや苦しみの中にいるあなたに先立って平安と希望の道を共に歩もうとされています。

 このことをぜひ心に刻み、主と共に歩みましょう。人生に苦しみ、絶望している隣びとがいる時、ぜひ神様が与えてくださるこの喜びの知らせを分かち合い

ましょう。

 

42日 説 教―           牧師 山中 臨在

  「神様が愛してくれるから」 申命記6:49

聖書は、神様は唯一の主であり、礼拝すべき方はこの方ただお一人だと教えます。歴史を通して人は、多くの偶像を拝んできました。お金や地位、自分の名誉や欲望、健康、趣味、娯楽、などを神様よりも前に持ってくる誘惑は大きいのです。また、仕事も家族も友だちも大切です。聖書はそれらをおろそかにして神様を礼拝しなさい、とは言っていません。私たちが唯一の神様を礼拝し神様を第一とする時、私たちの大切なものや必要なものはすべて備えられる、と語るのです。

その神様は「われらの神」である、ということも覚えておきたいことです。神様は私の主ですが、同時に私の隣人の主です。礼拝は、神様と私、そして他者の「三角関係」があって成り立ちます。自分と意見の合わない人、自分の苦手な人、話したことがない人、それらの人たちと「共に」唯一の主を賛美するのが礼拝です。ドイツの神学者ボンヘッファーは「教会が教会であるのは、それが他者のために存在する時だ」と言いました。私たちは隣人にどれほど関心を持っているでしょうか。「天にまします我らの父よ」と主の祈りを祈る時、私たちはどれだけ「我らの父」を意識しているでしょうか。

そして私たちの神、唯一の主を全身全霊で愛せよということを「いつも」心に刻み、教えなさい、と聖書は語ります。寝てもさめても子どもに語り聞かせる、とは単なる比喩ではなく、当時のイスラエルの人たちは文字通りこれを実行していたようです。単に暗記して知識を増やすという目的ではなく、人生の折々に自分の支えを身に着けるためのものです。また、この教えを家の戸口の柱や門に記すということは、自分は唯一の神様を信じていることを地域社会へ知らせる役割も果たします。一つの伝道です。

聖書が語る、礼拝、他者と共に、伝道、という3つの事柄を基に歩む中で、もう一つ心に留めたいことがあります。全身全霊で神様を愛するのは、まず神様が私たちを愛してくれるからだということです。「神を愛しなさい」と言われても、「神と自分と何の関係があるのだ」と思う人は多いでしょう。でもたとえあなたが神様と何の関係もないと思っていても、神様のほうではあなたに関わりたいのです。あなたの喜びも苦しみもすべてご存知で、あなたと共に歩みたい、それほどまでにあなたを愛しているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛した」(ヨハネ410)と聖書が語る通りです。

更に聖書は迫ります、神様は「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」(ヨハネ410)と。私たちが神様と関わりがなければ、私たちは罪ゆえに救いの道に行くことができないけれど、神様は私たちを罪から救いたいと思ってくださり、その罪の犠牲を神様自らが担って十字架の道へと進まれました。それほどまでに神様は私たちを愛しておられるのです。だから私たちもこの圧倒されるほどの愛に応え、全身全霊で神様を愛し、またそのことを人々に証しし喜びを分かち合って歩みたいと思います。