説教記録12月

1231日説 教          牧師 山中 臨在

おちつかないマタイによる福音書8:2327

 関西文化圏で育った私は、日常生活に「オチ」をつけようとする傾向があります。オチとは、「話の結末で、意外性を伴い、聞く人に安堵感を与える印象 を強く与えること」なのだそうですが、そう考えると、聖書が語ることは、す べてオチがあるように思います。主イエスのなさることはすべてにおいて人間 の思いをはるかに超えた驚くべき事柄ですが、必ず主からの平安が与えられて います。オチがつかない(おちつかない)主のメッセージはないのです。今日 の物語のオチは、イエス様が嵐の中で眠っておられたことではないかと思いま す。今日の箇所の少し前にイエス様は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。 だが、人の子(イエス)には枕する所もない」と言っています(8:20)。常に 敵対する人たちの目の中におかれ、安心して眠る所がないほど心休まる時がな いイエス様が、大嵐の舟の中に平安があったのです。私たちは大嵐に遭うと心 が乱れ怖じ惑いますが、そこにイエス様がおられるならば、平安があることを 教えてくださっています。ところが私たちはイエス様が大嵐の舟に共に乗って いてくださることを忘れます。弟子たちの多くは漁師です。嵐にどう対処する か心得ているでしょう。だから嵐が来た時、自分たちの知識と経験を頼りに、 乗り切ろうとしたのではないでしょうか。ところがこの大嵐には太刀打ちでき ず、もうだめだ、と思った時になって初めて弟子たちは「主よ、助けてくださ い。おぼれそうです」と恥も外聞も捨ててイエス様に懇願しました(25)。イ エス様はそんな弟子たちに「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ」(26)と 声をかけました。信仰の薄さを叱ったのではなく、信仰とは、まずイエス様が 共にいてくださることを受け止め、どんな状況の中にあってもまずイエス様に 祈ることなのだと諭すように教えられたのではないかと思います。

私たちの人生も小舟に乗ってする航海のようです。数々の嵐に遭遇し、時に はどうしようもないほど大きな暴風に襲われ、小舟は大きく揺れて私たちは途 方にくれます。でもその嵐の小舟にイエス様は共に乗っていてくださいます。 私たちが大揺れに揺れて落ち着かない時に、イエス様は眠っておられ、その時 こそがイエス様が本当の安らぎを私たちに与えてくださるのです。私たちが大 嵐に遭って落ち着かないのは、平安を与えるオチであるイエス様を見ていない、 受け止めていない、頼っていない、助けを求めていないからです。

教会はイエス様と共に嵐の中を航海する舟です。とても揺れます。今年私た ちの教会も嵐に揺れました。建築、財政、牧師招聘の課題は私たちを揺さぶっ ています。でもこの舟に、嵐を静める方が共におられるのです。平安のオチが いつも与えられているのです。私たちがそのオチを見ようとせずオチに頼らな いで自分中心に物事を考えようとしてオチをつけようとしないと、オチつかな いのです。

今年与えられた主からのオチは何だったか振り返ってみましょう。そして新 しい年、主はどんなオチを与えてくださるか、期待しつつ祈りましょう。

 

 

1224日 説 教―          牧師 山中 臨在

 「とびきりの贈り物」

マタイによる福音書  2:112

クリスマスは喜びの時なのに、この聖書の箇所には、喜びという記述がほとんどなく、むしろ、不穏な空気が漂っています。東方から来た占星術の学者た ちからユダヤ人の王としてメシアが誕生したことを聞いたヘロデ王は、この幼 子を殺そうとたくらみ、メシアを待望しているはずのユダヤ人たちにも不安が 広がっています。10 節になってやっと喜びの記述が出てきますが、喜んだの は、本来喜ぶべきユダヤ人ではなく、東の方から来た学者たちでした。東とは、 イスラエルにとって東にある地方で、これまでイスラエルを苦しめてきた、ユ ダヤ人にとっては憎らしい国々です。神様を信じない国の占星術の学者たちが、 なぜ、ユダヤ人の王メシアの誕生に接して喜びにあふれたのでしょう。

彼らは真理を求めて学問として占星術の勉強をしている学者です。彼らが研 究している星はあちらこちらに彼らを誘導してきました。その度に「ここに真 理があるのかな」「いやあそこにあるのかな」とさまよい続けてきましたが、 いつも星は止まることがなく彼らも真理にたどり着けずにいました。しかし今 ついにその星が止まりました(9)。イエス・キリストという真実の光にたどり 着いたのです。これだ、これが真実だ! もうさまよう必要がありません。だ から彼らは喜びにあふれたのでしょう。

喜びにあふれた彼らは、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げました(11)。 黄金は王様への贈り物、乳香は祭司への贈り物、没薬は死者への贈り物という ことで、これらの贈り物がイエス様に献げられたとよく言われます。一方でこ れらは占いの時に使うための大切な道具でもあった、ということも有力な説と してあります。ならば真実の光に出会った彼らは自分の財産とも言える貴重な ものをすべて手放したことになります。自分が拠り所としていた物はもう必要 なくなりました。自分が大切に抱え込んでいたものを手放した時、とてつもな く大きな真の喜びが与えられたのです。

礼拝とはイエス様に出会うことです。そしてイエス様に出会った礼拝者は自 分が握りしめているものを手放します。そこには喜びがあふれるのです。私た ちの忙しい日常や教会生活の中に「喜びはあるのか」と主が私たちに問うてお られるように思います。「あわただしい日常の中で、私たちが大切にしている ものを主の前に手放して、真の光をただじっと見つめなさい。そこに喜びがあ るのだ」と聖書は語りかけているのではないでしょうか。

イエス様が望んでおられるプレゼントは、主に出会う喜びです。喜びのない 人たちに喜びが与えられることです。多額のお金や高価なプレゼントではあり ません。義務感から苦しみつつ教会行事の準備をする労働でもありません。た だ立ち止まって主のみを見つめ、私たちの喜びと私たちの笑顔をイエス様にさ さげ礼拝することを望んでおられます。

イエス様を礼拝した学者たちは、「別の道を通って」自分たちの国に帰って 行きました(12)。礼拝でイエス様に出会った者は、新しくされるのです。悲 しんでいた自分が喜びの人に変えられます。これが礼拝の意義です。ぜひこのクリスマス、私たちの喜びを主に献げましょう。

 

 

1217日 説 教 ―          牧師 山中 臨在     

「最も○○な王様」

       マルコによる福音書 8:2733

私たちが礼拝しているイエス様は、どんな方でしょう。あなたは何と答えますか。ペトロは「あなたはメシアです」とイエス様に言いました。メシアとは、「油注がれた者」という意味で、香油を注がれて、神様の特別な使命を請け負う人のことです。イスラエルの人々は、旧約聖書に記されている、自分たちの国を異国の支配から解放してくれるこのメシアが来ることを待望していました。そのメシアは、「権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない」(ダニエル書7:14)と描かれている方で、いかなる政治的な権力にも立ち向かって人々を助ける強い王様、というイメージです。「ハレルヤコーラス」では「王の王」と歌われますが、ペトロは自分の師匠は「最も偉い王様」だと誇らしく思っていたのではないでしょうか。

しかしイエス様はそのペトロに、「自分がメシアだと人には言うな」と言いました。キリスト者は、イエス様が世を救うメシアだということを人に告げ知らせる使命を持っている人たちのことのはずなのですが、なぜイエス様はそれを人に伝えるな、と弟子に言ったのでしょう。イエス様は自分が、ペトロが期待しているような「最も強い、または偉い王様」ではなく、「多くの苦しみを受け、権威ある人々から排斥されてついには十字架につけて殺される」者であると教えました。人々の期待を裏切るような内容です、でもそれを「はっきりと話した」(32)と書かれていますから、とても大切な事柄でした。人間が思うような強い王様ではなく、むしろ権力に負け殺されてしまうような、弱い王様と思われてしまうかもしれません。しかしそこにはイエス様の私たちへの深い愛が示されています。イエス様は世を救うために来られたのではなく「あなたを」救うために来られた方です。権力の支配に苦しむあなたをその権力から解放する為に来られたのではなく、あなたを罪の支配から解放するために来られた方です。そのためにあなたの罪の身代わりとなって、あなたの苦しみを背負って十字架上で命を捨てられた方です。あなたが罪から解放されて生きるためです。でも十字架で死んで終わりではなく、3日目によみがえって、永遠の命の希望が「あなたに」あることを示された方でもありました。それはまさにイエス様が神の子であることを示す事柄です。この王様は高みから世の人々を見下ろして「お前たちがんばれよ」と言うのではなく、あなたの所に降りてきて、あなたの名前を呼び、あなたの痛みを請け負う王様、王様らしくない王様です。でも徹底的に「あなたを」愛する方です。たとえこの世の中にあなた一人しかいなかったとしても、そのあなたのために十字架にかかる方であります。

イエス様を、あなたはどのように表現するでしょうか。「最も○○な王様」の○○に、あなたはどんな言葉を入れますか? あなたにとってイエス様はどんな方なのでしょう? あなたがどんな風に考えているにせよ、今日も聖書を通してイエス様はあなたに「愛しているよ」と語り続けておられます。

 

 

1210日 説 教―         牧師 山中 臨在

「愛せないあなたへ」

ヨハネによる福音書151217

「互いに愛し合いなさい」とイエスは命じておられます。イエスの命令ならば何としても守らなければなりません。しかし私たちは、愛せと命令されたからと言って愛せるものではないのではないでしょうか。おまけに「わたしがあなたがたを愛したように」愛せということですが、イエスは自分を愛さずに、ののしる者や自分を裏切る者さえも愛した方です。そんな愛し方を誰ができるでしょうか。一体イエスは、何の権利があって、こんな無茶な命令をされるのでしょうか。

俳優時代に出会った一人の方(以下Aさん)のために、私は苦しい思いをしました。正直なところ、思い出したくない人です。俳優をやめて神学校入学のためアメリカに渡った私は、もうAさんに会わずにすむと思って喜びました。ところがどういうわけか時々Aさんが夢に出てきて、そのたびに悪夢がよみがえって苦しくなります。Aさんを愛することができなければ牧師にはなれないという神様からのテストなのだろうかとも思いました。そんな私に、ある先輩牧師が「あなたには愛せない人がいるのですか」と尋ねました。「はい」と答えるのはクリスチャンとして恥ずかしいと思いつつも、どうしてもAさんの影が消えない私は「はい、います」と答えるしかありませんでした。すると先輩は「そう、ではそこから出発できますね」と言いました。愛せない自分の弱さと不信仰を認めたからこそ出発できるのだと言うのです。もし私が自分の努力で愛することができるなら、イエスの十字架は必要ありません。でも私には愛せないから、イエス様が必要なのです。愛せない者に愛せと無茶な命令をされるイエスは、愛せない私たちの罪の身代わりとなって死なれた方です。身をもって無茶ともいえる愛を示した方だから、無茶な命令ができるのです。確かにAさんを愛せないと認めた私は、少し楽になりました。

イエスは私たちを、僕ではなく友と呼んで下さいます。「友のために命を捨てるより大きな愛はない」と言われましたが、この友はまさにあなたのことです。イエスの言葉を聞かず、イエスを無視し、イエスを裏切る私たちのためです。自分の命を投げ出してまでも私たちを愛されたイエスが命じるのだから、「愛しなさい」という命令を私たちも聞かなければなりません。「わたしの名によって父に願う者は何でも与えられる」(16)とイエスは言われます。イエスの名によって、愛せない私が愛することができるように祈る道が与えられているのです。人を愛せない時、「互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉は、あなたに何を語ってきますか。

クリスマスは、愛することのできない私たちの重荷をすべて請け負って下さる救い主が与えられた日です。感動をもってイエスのこの愛を受け止めたいのです。私たち一人一人が、クリスマスを単なる年間行事としてではなく、感動をもって迎え、感動をもって人々に伝えてゆきたいと祈ります。

 

123日 説教 ―        山中臨在牧師

世界の果てまで行ってQ

ローマの信徒への手紙 10:14~21

神の言葉は、世界の果てにまで及ぶと聖書は語ります。宣教師たちはこの御言葉に応えて世界のあちこちに出かけておられますが、世界の果てに出かけることはたやすいことではありません。言葉も習慣も気候も考え方も、自分とは全く異なる所です。しかもそこは、神の存在を疑う所や、神を見失い絶望に苦しむ所かもしれません。そこに住んで、そこに住む人たちに神の言葉を伝えるまでになるにはどれだけの時間と労力を費やすことでしょう。

そしてそんな世界の果ては、案外私たちの身近な所にもあるのではないでしょうか。近隣、職場、学校、家庭。そこにいるほとんどが神の存在を疑う方々です。キリスト教に対して好意的ではない人も多いでしょう。そんな身近にある「世界の果て」に行くことを私たちはためらいます。信仰の話さえしなければ、そこにいる人たちとうまくやってゆけるのに、神の言葉を伝えたとたんに人間関係にヒビが入ってしまうことを私たちは恐れます。また自分の経験から「悩みや絶望の淵にいる人たちのところに行って神の言葉を伝えても、彼らの心には響かない」と考えてしまいます。彼らの絶望が少しも和らげられないのを見ているのはつらく、自分の無力さを突き付けられます。だからそんな所に行くことをためらうのです。

でも私たちが行きたくないそんな世界の果てにこそ、福音が必要です。実のところ、世界の果ては自分自身かもしれません。人には理解してもらえないような悩みや苦しみを抱える時、神に信頼しているはずなのに、いつしか神を疑い神から心が離れてしまう自分。聖書は「信仰はキリストの言葉を聞くことによって始まる」(17)と語ります。神の言葉を聞いているようで自分は聞いていなかったことを示されるのです。そんな自分は最も福音を聞くことが必要な「世界の果て」です。そんな「私」に福音を届けようと、イエスが私たちの所に降ってきてくださったのです。

それぞれの「世界の果て」に主は私たちを遣わされます。遣わされるということは、行くということだけではありません。世界の果てに行って、神がそこで何を語れと言われているか、何をせよと言っているか、聞くことが必要です。世界の果てにいて、神を見失い絶望している人に必要なことは何なのか、たくさんのQuestionがあるのです。そのQuestionを聞き、それに対する神の言葉を聞くことが必要です。自分たちが学んできた宣教学の知識や宣教の方法、あるいは自分の考えをただひけらかしたり、押し付けるのが福音を伝えることではありません。神の言葉が今絶望の淵にいる人の心にどのように届けられなければならないかは、空調の効いた快適な神学校の教室や教会で勉強しただけではわかりません。世界の果てに行って、その人たちに触れて交わり、祈って神に聞かなければならないのです。「世界の果てに行ってQ」ということが大切です。

御子イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスを迎えようとしている今、あなたが遣わされる世界の果てはどこでしょうか。そこであなたに何をせよと神は語っておられるでしょうか。