説教要旨

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529日説 教―               牧師 山中 臨在

      「しょうてん」使徒言行録1:311

教会暦では、イエス様の復活から 40 日目の木曜日をキリストの昇天日として記念しています。イエス様が天に昇られたことが私たちに語るメッセージは 何でしょう。それは「イエスを見なさい」ということだと思います。私たちは 上にあるものを見ます。イエス様が昇天された時、弟子たちは「天を見上げて」 いたと記されています(11)。弟子たちにはさまざまな心配ごと、気がかりな ことがありました。「イエス様、あなたが復活していよいよイスラエルが再建 されるのですね。今日ですか、明日ですか」とそれが気になっていました。自 分の周りのことに気がかりな彼らの前で、イエス様は天に昇っていきました。 当然弟子たちの視線は、自分の周りのことからイエス様に移りましたが、その 時、自分たちがまず目を注ぐべき方はこの方であることを弟子たちは知りまし た。私たちの視線の焦点を、イエス様に定めなさい、心配も気がかりもある中 で、いやある時こそ、まずイエス様を見なさい、と聖書は語りかけているので はないでしょうか。

イエス様に焦点を定めた弟子たちには何が起こったでしょう。「彼らはイエ スを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、・・・絶えず神をほめたたえ ていた」(ルカ 245253)のです。十字架で死んだイエス様が復活して、意 気消沈していた弟子たちは喜んだのも束の間、イエス様がまた自分たちの前か らいなくなったのに、なぜ彼らは、喜んで神をほめたたえることができたので しょうか? それは「天に上げられたイエスは、・・・またおいでになる」(11) からです。昇天された主が世の終わりまでいつも私たちと共にいて(マタイ 2819)、再び世に来られる、その希望が弟子たちに確信を与え、主をほめた たえる礼拝の喜びに変えられたのです。

ところで、人が亡くなることを、天に召されるので「召天」と言います。召 す、には「役割に就かせる」という意味がありますから、天に召されるという ことは、天の役割が与えられることです。肉体の死は終わりではなく、主に呼 ばれて新たな役割を与えられることなのです。そしてもう一つ、イエス様が再臨される時「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活する」(Ⅰ テサロニケ 416)ということも召天者の大切な役割であることを覚えておきたいと思います。

また聖書は、生きている者に与えられた役割についても語ります。昇天されたイエス様を見上げていた弟子たちに天使が「なぜ天を見上げて立っているの か」(11)と言います。今いる所に留まっていないで、あなたはあなたの役割 に向かって動きなさい、というメッセージです。主に焦点を定めた者には聖霊 が降って力を受け、世の人々に主を証しする者となる役割がある(8)のです。 あなたに主が与えられている役割は何でしょうか。主に焦点を定める中で示された役割を受け、今いる所から一歩主に向かって歩み始めましょう。

 

522日 説 教―            牧師 山中 臨在

「 つまずく」ローマの信徒への手紙11:1124

時々つまずいて倒れそうになることがありますが、つまずくことは倒れることではないとパウロは語ります。ユダヤ人は主につまずいて信仰から離れていましたが、信仰の道から完全に倒れたのでも神から見捨てられたのでもないの です。つまずくことは倒れることの途中経過ではなく、立ち直るためのステッ プです。信仰につまずいたイスラエルを神は見捨てず、信仰を回復する道を備 えてくださいました。

今日の箇所に野生のオリーブの接ぎ木のたとえが描かれています。野性のオ リーブとは異邦人のことを指していますが、これが栽培されているオリーブに 接ぎ木されたら豊かに実を結ぶというわけです。野生のオリーブは放っておけばただ倒れるのを待つばかりの弱い存在、栽培されたオリーブの木に接ぎ木されて養分を与えられなければ生きていけない存在であると聖書は語ります。私 たちは自分には力がある、自分の努力で人生は切り拓けると思いますが、本当は、神につながらせてもらわなければ生きていくことのできない存在であることを教えられます。一人では生きていけない弱い私たちを、神は見捨てず愛し、神の救いの台木に接ぎ木して神につないで下さると聖書は言うのです。接ぎ木 していただくためには、台木の大切な枝を切り落とさなければなりません。それがイエス・キリストの十字架です。神はご自身の尊いみ子イエス・キリスト を切り取って十字架につけ、自ら痛み苦しみを負いながらも、本来神から切り 離されるはずの罪にまみれた私たちを、神の救いの木につないでくださったの です。

私たちはよくつまずきます。信仰につまずき、み言葉につまずき、人につまずきます。人生の歩みで倒れてしまい、自分は神に見捨てられ神から切り離されたと感じることもあるでしょう。しかし神はそんな私たちを決して見捨てず、 もう一度主に目を向け、主に接ぎ木されるようにと招いておられます。つまず くことは、神がもう一度つなぎ合わせてくださることへの恵みであり希望のし るしです。つまずくたびに、今主が自分に語りかけておられることは何かをただ祈り求めなければなりません。自分で祈れなければ、誰かに祈ってもらい、 その人の祈りによって主に接ぎ木していただきましょう。教会は祈りの家なのです。祈り合うことのできる共同体です。もし私たちが、できることだけやって自分たちの業績に満足するなら、神のみ手は必要ありません。つまずかない 道だけ選んで生きれば、そうすることである達成感が得られて満足するのかもしれません。でもそれは、熱心な宗教団体かもしれませんが、主の教会ではあ りません。

神は、罪を繰り返し信仰につまずき、あとは死ぬばかりの私たちに「あなた は私を求めて生きなさい。たとえつまずいても私につながって生きなさい」と 言ってくださる命の主です。私たちは、その命の主の教会です。驚くべき恵み を与えてくださる主の招きに応えて、共に祈りましょう。

 

515日 説 教―            牧師 山中 臨在

     「今なお健やか」   ヨシュア記14:615

エジプトの奴隷生活から脱出したイスラエルを率いるリーダーのモーセは、 神様が約束された地カナンへヨシュアとカレブたち 12 名を遣わし、偵察に行 かせました。ヨシュアとカレブはカナンの地のすばらしさを報告しぜひカナン へ行こうと言いますが、一緒に行った他の者たちはカナンへ行くことが困難で あると主張したため、イスラエルの民には混乱が生じました。しかしカレブは 主なる神様をとことん信じ、主が約束された道から目を離しませんでした。そ れから 45 年の時が経ち、85 歳になったカレブは今なお主に従いとおし、45 年前に主が約束された土地を自分に相続させてほしいと願い出ます。その場所 に入って行くのは極めて困難ですが、カレブは「私は今なお健やかだ」と強い 確信と気力を持ってそこに行くべきだと言っています。

歳をとってくると、体力も気力も衰え、危険を排除して無理なく安全に暮ら したいと思うのが常でしょう。しかしカレブは今の自分にしかできない務め、 今の自分だからこそ主が与えてくださる務めに忠実であろうとしています。そ の彼の務めは、決して楽な道ではありません。難しい地形と強い先住民がいて 攻め入るのはかなり難しいと思われます。カレブはもっと楽な土地に行くとい う選択もできたはずですが、このチャレンジを自分が受ける意欲と使命感に満 ちています。これは、彼の能力やプライドや根性に根拠があるのではありませ ん。「主がわたしと共にいてくださる」という主の約束を徹底的に信頼してい る信仰から来ているのです。

あなたは若いですか、それとも歳をとっていますか。そのあなたには今神様 からどんなチャレンジが与えられていますか。今のあなたに神様が与えられて いる役割は何でしょうか。85 歳になるまでカレブは「生き永らえさせて」(10) いただきましたが、85 歳でなくても、今日の年齢に至るまであなたは神様に 生き永らえさせていただいています。ということはあなたには神様から与えら れた役割があります。その役割を担うのは楽ではないかもしれません。カレブ がそうであったように、むしろハードルの高い大きなチャレンジかもしれませ ん。でもカレブが主に従いとおして主の召しに応えた結果、戦いは収まりまし た(15)。チャレンジの先に平安が与えられたのです。私たちにも恐れや不安、 あるいは面倒くささや怠慢の思いがありますが、どんな時も主に従いとおして、 主のチャレンジを受けて歩むなら、主の平安へと導かれることでしょう。たと え気力や体力が衰えたとしても、主が共にいてくださるから、今なお健やかに 主のチャレンジを受けることができます。

主から与えられるチャレンジは大変そうで、できればそれを避けて通りたい と思うかもしれません。でもそのチャレンジの先にこそ主の平安があります。 チャレンジを受けなければ主の平安にたどりつけません。そのために主を信頼 し、主に従いとおして歩みたいと思います。

 

58日 説 教 ―             牧師 山中 臨在

 「人生の土台」 コリント信徒への手紙() 3:911

建物を建てる時は、しっかりした土台を据えることが大切です。面倒で大変 だからと言って土台作りを怠ると、建物は倒れてしまいます。聖書は、イエス・ キリストこそが人生の土台であり、イエス以外の土台は据えることができない と言います。「イエスを土台に据えればあなたの人生は揺るがない」というメッセージをよく聞きますが、自分の信仰生活を振り返ると、いまだに揺れてば かりです。焦る中で今日の箇所を何度も読み返している内に、ふと地震の時に 高層ビルが揺れていたことを思い出しました。ビルが揺れることは怖いと思い ますが、実はこの時しっかりした土台は揺れていません。むしろ建物が揺れる ことでビルの上の方の階には力が加わらず安定を保っているのです。人生も同じなのではないでしょうか。実は人生は揺れるのであって、しっかりした土台 が据えられていたら、倒れない、そういうことなのだと思うのです。高層ビル が揺れることで安定を保ったように、揺れることは人生においてむしろ必要な ことかもしれません。高層ビルが揺れるたびに、しっかりした土台に支えられていることを確認できるように、私たちの人生が揺れる時に、私たちが土台に 支えられているならば、その土台を感じることができるのです。そして聖書は、 その人生の土台はイエス・キリストしかいない、ほかの土台を据えることはで きないと語ります。100 パーセントイエスが土台なのです。100 パーセントイ エスを土台に据えることがどんなに面倒くさくても手間がかかっても、そうし ないと人生という建物は倒れてしまうよ、と語っているのではないでしょうか。

10 節の「建築家」という言葉は元来「建物を建てるために個々の大工に建 築の任務を分配する人」という意味だそうです。教会は一人の建築家が建てる のではなく、すべての人が「神のために力を合わせて」建てられるのです。そこには喜びと共に難しさや苦しさもあるかもしれません。だから人生は揺れ動 くのではないでしょうか。そして揺れていいのです。揺れることは必要なので す。心砕かれ揺れる時に、土台であるイエスに守られていることを私たちは知ることができるのです。

100 パーセントイエスを土台とするのは難しいと思うこともあるかもしれ ません。しかし私たちがどのように土台を据えようとも、イエスのほうでは、 あなたの人生の一部ではなく、あなたの人生全体に関わっておられる、あなた のそばに絶えずいてあなたの道を導いて下さるということです。あなたがたとえイエスの方を見ていなくても、そのあなたのためにイエスは十字架にかかってくださいました。あなたがたとえそのイエスのことを理解できなくても、イ エスのことをどんなに憎んだとしても、イエスはあなたを 100 パーセント愛 しています。それは 100 パーセントあなたを見つめていなければできない業です。

ぜひ土台をイエス・キリストに置いて歩みたいと思います。たとえ今は苦しく前が見えなくても、イエスが私たちを照らします。私たちの揺れる人生をイ エスに委ねましょう。イエスの土台は揺るぎません。

 

51日 説 教 ―           牧師 山中 臨在

  「バベルの塔」 創世記 11:19

人々が天に届くほどの塔を作ろうとしていたのを良くないと思われた神様 は、彼らの言葉を混乱させて互いの言葉が聞き分けられないようにしました。 その結果人々は全地に散らされて行き、天に届く塔のある町は完成しませんで した。人間が違う言葉をしゃべるようになったのは神様からの罰だ、とする考えもありますが、どうなのでしょうか。

ここで問われているのは、同じ言葉が使われていたかどうかということより も、お互いの言葉を「聞く」ことができたかどうか、ということではないかと 思います。同じ言葉をしゃべっていても相手の言っていることを正しく理解できないことがあります。ちゃんと聞いていなかったり、「自分は正しい」という先入観から相手の意図を自分に都合の良いように間違って理解してしまう のです。それでいて自分に先入観があることには気づいていません。そして私 たちが最も聞くべきは神様の声ですが、それを聞こうとせず、身勝手な先入観 で物事を考えることが人間の「企て」(6)であり罪だと思います。バベルの塔 を作ろうとしていた人たちは「有名になろう」と思っていたとありますが、これは別の訳では「名をあげる」となっています。つまり神様の栄光のためでは なく、自分の名声のためにやっているという、罪の表れです。神様の声を聞こうとせず自分が中心になる様子を神様は悲しまれたのではないでしょうか。

このことは、今日の教会に発せられているメッセージでもあるでしょう。教 会が神様の栄光のために、と言いながら実は神様の声を聞かず、自分たちの名 誉のために存在しようとしていないだろうか、教会外の人を無意識に排除したり裁いたりしていないだろうか。あるいは教会内でも他者の言うことを尊重せずちゃんと聞かずに自分の主張を押し付けることで不和が生じていないだろ うか。バベルという言葉ですが、9 節に、バラルという「混乱」という言葉に かけてこの地がバベルと呼ばれたと書かれていますが、しかし元々は、「神の 門」という意味もあるようです。教会は、イエス・キリストを通してこの地上 に建てられた神の門、すなわちバベルなのではないでしょうか。この神の門を 通って神様との交わりを持つことのできる祝福の場所だと思いますが、しかし この神の門は、私たちの自己中心な先入観によって神様の言を聞こうとしなければ閉ざされてしまいます。教会を形作る私たち一人一人の心の中にもバベル の塔があるかもしれません。私たちが神様の声に聞き、他者の言うことを聞く とき、主イエス・キリストを通して神の門は開かれますが、私たちが聞くこと を怠って神様に背き他者をないがしろにしてしまう時、あなたの中のバベル、 即ち神の門は閉ざされてしまうのです。

私たちが神様の声に聞き、イエス・キリストを主と仰ぐ時、すべての人が言 葉の違いのみならず、国の違い、文化の違い、あらゆる違いを超えて本当の意 味で一つにされるのではないでしょうか。