説教要旨

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110日 説教―             牧師 山中 臨在

「教会なんていらない!」コリントの信徒への手紙一12:1228

                  申命記6:49

キリスト教は、神様と「私」との個人的な関係に基づいています。それなら、各個人がそれぞれに神様の導きを求めて信仰生活を送れば、人間関係に煩わされず、神様により集中して向き合えるので、教会なんていらない、という発想も生まれてくるでしょう。実際教会では人間関係による諸問題も起こっています。それなのになぜ教会は必要なのでしょう。

聖書は「あなたがたはキリストの体です」(27)と言います。そして体は一つの部分ではなく多くの部分から成るものであるから(12, 14)、それと同じように、キリストの体は「私」一人ではできないのです。キリストを証しするための体には「私」以外の人々が必要です。だから教会が必要なのです。

この体は、各部分が配慮し合っているので分裂しません。それは人の集まる組織内ではなかなかできないことです。ついきつい言葉が飛び交ったり、傷つけ合うこともあります。組織が少しでも良くなろうとか頑張って強くなろうという熱心さゆえのことかもしれませんが、実はそこにキリストの体と人間の組織の違いがあります。キリストの体は、他よりも弱い部分が必要(22)で、見劣りのする部分が引き立つように組み立てられている(24)のです。強さを求める人間の組織と違って、弱さを中心においているのがキリストの体です。体の最も弱い部分、最も見栄えがよくない部分、最も遅い部分が中心となりそれに歩調を合わせて進むから、誰も落ちこぼれません。他者を批判するのではなく、手を差し出して一緒に歩くのです。そして最も弱い部分が尊ばれる時、それは体全体の喜びになると聖書は言います(26)。

他者に配慮し歩調を合わせるには、他者の視点を持つことが大切です。人間は、他者も「私の」視点に立つべきだと考えがちです。また組織は皆同じになろうとする傾向が強いように思いますが、神様は、違いを喜び尊重しなさいと教えています。だから「御自分の望みのままに、体に一つ一つ異なる部分を置かれた」のです(18)。違う各部分が助け合いながらキリストの体を作り上げることが主の栄光を表すことです。各部分が「自分の栄光を表そう」と少しでも思うなら、キリストの体はできあがりません。

「私」が実は最も弱い部分であったのに、神様はその私を見捨てず、私に寄り添い、私を「必要と」してくださったのです。そして体の他の部分の人たちもまた、私に配慮し、忍耐し、共に歩んでくれたのです。今の自分は、神様の愛と恵み、そして他者の配慮と励ましによって生かされていることを忘れないで歩めるなら、自分もまた他者を尊び、尊重し、寄り添って歩むことができます。それがキリストの体となってキリストに栄光を帰する生き方です。

自由に集まれない今こそ教会が必要なのではないでしょうか。物理的に集まれなくてもキリストの体なのです。人は一人では生きていけません。キリストの体は一人ではできません。互いに祈り合い支え合い励まし合う教会として今こそ歩みましょう。

 

 

13日説 教―                 牧師 山中 臨在

  「天国の新年会」   ルカによる福音書15:1132

放蕩息子の物語から、天国の新年会の様子を探りましょう。父から財産をかすめ取り家を出た放蕩息子は、お金を使い果たし惨めな境遇に陥った時、父の許に雇い人の一人として帰ろうと思います。自分に無礼を働いた息子を普通なら父親は許せないと思いますが、この父は放蕩息子を喜んで迎え入れて、宴会を催しました。これが天国の新年会(新しい歩みが始まることを期待する宴)です。

 無礼だった息子を父は抱きしめ、「これから始まる新しい年を共に喜ぼう」と言うのです。一方息子のほうは、自分の犯した過ちを悔い改めています。これまでの問題が積み残されたままでは、新しい年の歩みは始められません。その姿勢で臨むことが新年会には大切です。注目したいのはこの順序です。息子が謝る前に父親がまず息子を迎えているのが天国の新年会(=礼拝)の特徴です。弟のために宴を開くことに不満を持つ兄息子に対しても、父のほうから近づいています。まだ息子が遠く離れている時から父が息子を待ちわび見つけてくれるように、父なる神様は遠くにいる私たちを見つけてくださるのです。罪深い私たちを神様が抱きしめて迎えてくださるから、私たちはその愛に応え、罪を悔い改めなければなりません。

 さて、天国の新年会のもう一つの特徴は、身分の違いに関係なく宴会が行われることです。放蕩息子は父に対面するにあたって、謝罪の言葉を練習していましたが、いざ父と対面したら、父は息子の最後の台詞「雇い人の一人にしてください」を言わせませんでした。そして良い服(栄誉を表す)、指輪(自分の権威の委任を表す)、履物(奴隷でなく自分の子どもであることを表す)を与えます。父は本来自分の召使として働くのが妥当であると思われる放蕩息子との間の上下関係を自ら取り払っているのです。これはまさに神様が私たちに接してくださる時の様を表しています。

 ところでこの祝宴は、主催者である父と一緒にいなければ始まりません。ごちそうがあっても味わうことができません。放蕩息子は、父と離れてもお金があれば平安だと思っていましたが、しかしそのお金は父と一緒にいることでこそ平安をもたらすことに気づいていませんでした。兄息子も自分の正しさだけを主張し、父親から心が離れ父の家に入ろうとしない時には、自分が持っている財産の豊かさや父の愛の豊かさに気づかず、心が貧しくなりました。天国の新年会には、有り余るほどの食べ物がありますが、主催者である神様と共にいなければ、その恵みに気づきそれを味わうことはできません。私たちは神様から多くの恵みと賜物を与えられています。しかしそれは父なる神様と共にいてこそ豊かになり大きく用いられるのです。

私たちを忍耐強く待ち、抱きしめてくれる神様から離れず、豊かな天国の新年会(である礼拝)を続けていく年になりたいと祈ります。共に天国の新年会を楽しみましょう。