説教要旨

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221日 説 教―            鶴ケ谷芳昭 神学生  

 「神様の見せてくださる光」イザヤ書21:1112

   ローマ  13:11

  囚われの身にあって故郷から遠く離れた人々が、預言者のところにやって来て、「見張りの者よ、今は夜の何どき」と聞きます。つまり「夜はまだどれだけ長いのか、捕囚が終わって、いつ故郷に戻れるのか」と預言者に聞いているのです。「朝は来るが、まだ夜だ。尋ねたいならば、もう一度来るがよい。」捕囚となった民は暗闇の中に閉じ込められていますが、預言者は「朝は必ず来る。しかも近づいて来ている。でもまだ夜なので、もう一度聞きに来なさい」と言います。神様は預言者の口を通して捕囚の終焉という希望を捕囚の民に知らせています。

パウロはこの言葉を受けて、信仰を堅くして生きることが難しく、人々は世の中に流され、希望を失おうとしている今という時、神様の救いは近づいている、「夜は更け、日は近づいた。」と宣言しています。暗闇から神様の光が生まれ、その光が世を照らす時が来る。だから、その光を武具としてまとえるようにしておく、つまり、神様の光を単に待つことから一歩出て、新たな日の朝焼けが生まれることを期待し、備えなさいと述べています。でも、自分が暗闇に置かれ、長く時間がたってしまうと、どっぷり闇に浸かり、光を想像し、期待することもできなくなってしまいます。

「キャッツ」というミュージカルにグリザベラと言うメスの猫が出てきます。今は年を重ね、過去の栄光のみに頼って生きています。彼女は拭い去ることのできない過去を引きずって今を生きており、過去と現在の暗闇の中に閉じ込められています。そのグリザベラに対して、光の存在を感じることができるように変えていくシラバブと言う猫が与えられます。その支えによってグリザベラが変わり、過去、現在という暗闇の中にいたグリザベラが長老猫のデュートロノミーの導き、シラバブの支えによって、闇の中から光の中へと歩みだします。

神様は私たちをいつも見ていて、そして、光を与えていて下さっています。創世記の13節で神様は「光あれ」と言われ、光を与えてくださいました。それは、この地上を照らす光であり、地上に住む者たちに示した希望でもあります。どの様な状態にあっても、神様は光を与えて下さり、光に向かってアプローチしていくことが求められています。

今、世の中はコロナウイルスが蔓延しています。コロナという中に私たちが置かれてしまった結果、人の心が明日の見えない闇の中に押し込められてしまったのです。私たちにとっても、礼拝さえも自由にできない状態になっています。でも、神様は明日、次の世界における光を示してくれています。それは希望です。コロナの収束、その後の生活、そして神様を皆で礼拝できること、今考えるだけで沢山のことが、目の前に現れてくるでしょう。それを希望とし、今を大切に、もう一度神様の言葉を思いだし、祈っていくことが求められているのではないでしょうか。

 

214日 説 教―               牧師 山中 臨在

       「奉仕」  ペテロの手紙一4:711

すべての人は神様から賜物を与えられ、それを管理しなければならないと聖書は語ります。管理人は主人の財産や持ち物を預かって、主人の御用のために運用する使命がありますから、私たちに与えられた賜物は主人である神様のものであり、それを神様の御用のために使わなければなりません。もし自分の名声を得るために賜物が使われるなら、それは賜物とは言えません。賜物を自分勝手に用いることはできないのです。「その賜物を生かして、互いに仕えなさい」(10)と聖書は言います。それが奉仕です。奉仕は自分の益のためではなく、他者の益のため、ひいては神様のためになされるものです。

万物の終わりには「人々は自分を愛し、高慢になり、神をあざける」(テモテ3:1)ようになりますが、私たちは今まさにそんな時代を生きています。自分自身を愛し、自分中心で思いあがっている私たちに、「自分のためではなく、他者に仕えるために賜物を使いなさい、それこそ神様が私たちに望んでおられることだ」と聖書は諭します。そのためには「思慮深く」(判断の地位を神に与える、の意)、「身を慎む」(酒に酔わず、神の判断に目覚めている、の意)ことが必要です(7)。私たちが常に祈り神様の判断に対して目を覚ましていることが、神様から授かった賜物を管理することになるのです。

私たちは、自分の才能や得意なことを賜物と思うかもしれませんが、必ずしもそうではなさそうです。得意なことを取り上げられることによって自分中心の思いに気づき、別の事柄で主に仕える道を示されることもあるでしょう。自分の栄光を手放すことによって主が与えてくださった賜物を発見するかもしれません。勿論、得意なことが賜物であることもあるでしょう。その場合も、その賜物によって自分を誇るのではなく、主の御用のためにそれを用いて奉仕することを主は望んでおられます。

私たちは「この教会には私の奉仕の場がない」と不満を持つことがあるかもしれません。でも自分の活躍のために、自分の満足のためにキリストの体である教会を使おうとするなら、それは本末転倒です。自分の得意なことができない、自分の活躍がないと思った時は、むしろ主の判断を仰ぐチャンスが与えられているのではないでしょうか。案外、自分が不得意だと思っていることが、神様が与えて下さった賜物かもしれません。賜物は、自分を誇示し自らが栄光を受けるのではなく、「すべてのことにおいて、神が栄光をお受けになる」(11)ためにあるのです。

来週から来年度の役員選挙が始まり、またそれ以外の奉仕についても思いをはせる時が来ています。私たち一人一人の心の中には様々な思いがあると思いますが、奉仕は、奉仕者を指し示すためではなく、神様を指し示すためにあることを心に留め、神様の判断を仰いで祈りましょう。あなたの賜物は何でしょう。自分の賜物を発見するために、御言葉に聞き、祈りながら、その賜物の善い管理者として歩みましょう。

 

27日 説 教―       牧師 山中 臨在

「一人でできなくても」 使徒言行録18:111

大伝道者と言われるパウロには大抵の場合、協力者がいました。アテネ伝道がうまくいかず、その挫折の中コリントへやって来たパウロは、アキラとプリスキラという夫妻に出会います。この夫妻の所に住まわせてもらうことになったパウロは、新しい土地で活動拠点が与えられ、大きな支えを得ました。

 そこにマケドニア伝道を終えたシラスとテモテも加わります。この二人の協力によって、それまで生活の糧を得るためにテント造りをしていたパウロは、御言葉を語ることに集中できるようになりました。一人では到底なしえないことでした。そんな協力者を得られ、パウロはコリントにいたユダヤ人たちに伝道をしましたが、彼を待っていたのは、ユダヤ人たちからの反抗と罵声でした。コリントは商業貿易の盛んな港町で旅行者が多く、町の風紀は大いに乱れていて、そんなことも影響したのかもしれません。「こんなに協力者がいるのにうまくいかない。やっぱりオレはだめだ」とパウロは思ったかもしれませんが、主は福音宣教のわざを見捨てません。今度は異邦人に伝道しようとしていたパウロに、次なる協力者ティティオ・ユストという人を出会わせます。会堂の隣に住んでいたティティオ・ユストは、パウロを会堂長のクリスポに引き合わせます。このクリスポも福音に触れて、クリスポのみならず、クリスポの一家全員がクリスチャンになりました。そして地域に影響力のあったクリスポを通してさらに多くの人々がクリスチャンとなりました。挫折をし失意の中にあったパウロ一人では到底なせるわざではありません。

 「わたしの働きのために大きな門が開かれているだけでなく、反対者もたくさんいます」(Ⅰコリント16:9)とパウロが言っているように、福音宣教の前進には反対者が立ちはだかります。パウロの伝道には苦難がつきまといました。しかし主はいつも、パウロが一人でできなくても、お互いに補い合って協働する人々を備えてくれました。その中でパウロは聖霊の導きを幻から受け、励まされ、強められました。「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる」(9-10)と主は言われます。私たち一人一人にも向けられた力強い言葉です。でも弱い私たちは、主がいつも共におられると知っていながら、恐れます。挫折すると意気消沈します。神様は目に見えないから不安になります。しかし神様は「この町にはわたしの民が大勢いる」と言って(10)、私たちにわかる形で助け手を送られるのです。

 

 今日までバプテスト連盟は協力伝道週間を過ごしています。各教会が様々な課題を与えられていますが、一つの教会ではできないことも二つ三つの教会が一緒にやることで課題を乗り越えられることがあります。「私」が一人でできないことも、主にある仲間と協働してできることがあります。あなたは一人ではありません。主が助け手を備えてくださっています。困難や不安がある時こそ、主に助けを求め、仲間に助けを求め、祈り合い励まし合って、主が与えてくださった道を歩いていきましょう。