説教要旨

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説教記録7月

731日 説 教 ―          牧師 山中 臨在

「神殿を建てる」    列王記上8:2229

父ダビデから主を礼拝する神殿を建てるようにと託されたソロモンは 7 年 かけてそれを完成し、神殿奉献の祈りをします。この祈りから私たちに語られ るメッセージは何でしょうか。

一般的には祈りというと何かを一心不乱に願うことだと思われがちですが、 祈りは願うことだけではありません。祈りは「ねことさかな」などと言われま す。ね:願い、こ:告白(主告白、罪の告白)、と:とりなし、さ:賛美、か: 感謝、な:何でも。ソロモンの祈りには「主告白」と「賛美」(2327)、「感 謝」(24)、「願い」(2528)、「とりなし」(26)が含まれています。このあと に続く祈りには罪の告白も出てきます。祈りは神様との対話です。神様の前に 静まって、願いだけでなく「ねことさかな」に思いをはせながら、神様とじっ くりと向かい合う時を持っていきたいと思います。

またこのソロモンの神殿建築を通して、神殿を建てる、私たちにとってあて はめるならば、教会建築をするとはどういうことなのかを聖書に聞きましょう。 神殿建築を通してソロモンは、主なる神様が「上は天、下は地のどこにも並ぶ 者がない」方であり「慈しみを注がれる」方、また私たちを愛し祝福し続けて 下さるお方であることを知りました。そして「神は果たして地上にお住まいに なるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わた しが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」と言っています。ソロ モンは自分が建てた神殿の大きさではなく、主の大きさを知り主の大きさをほ めたたえています。そして人間が神を支配することはできないことを告白し、 礼拝とは、そしてまた信仰とは、人間の都合ではなく、徹底して神様の御計画 がなるものであるのだと告白します。ソロモンの神殿を建てたのはソロモンで はなく、主のご計画によって主が建てられたものであることを私たちは忘れて はなりません。私たちの教会を建てたのは、主です。祈りの宮として神様が私 たちに与えてくださいました。

品川教会は、祈りの宮となっているでしょうか。主を証ししているでしょう か。教会の大きさではなく、神様の大きさを誇っているでしょうか。主をあが め礼拝する教会となっているでしょうか。私たち人間の願望や計画ではなく、 徹底的に主の御計画がなるように委ねるものとなっているでしょうか?

教会は礼拝の宮であり祈りの宮です。教会は委員会をするための建物ではあ りません。人との社交をするための建物でもありません。会議も交わりも大切 ですが、すべて主に栄光を帰するものでなければなりません。御言葉に聞いて 祈ることなしには教会は建てられません。御言葉と祈り抜きの会議や交わりは できません。

品川教会も今後、耐震等考えて教会建築のことを考えていかなければならな いでしょう。教会建築を通して、祈ることへと導かれていきたいと思います。 そして、教会建築を通して、主がどのような方であるかを知り心から礼拝するものでありたいと願います。

 

724日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

 「死んだほうがましだ!」 ヨナ書 4:111

神は預言者ヨナに、ニネベという町に行って神に背を向けているニネベの人 たちに神の言葉を伝えなさいと命じますが、ヨナはその命令に背いてニネベと は真反対の方角に向かいます。しかしヨナの乗った船が大嵐に遭遇し、それが 自分のせいであることを知っているヨナは自らを海に放り込ませます。神は巨 大な魚にヨナを呑み込ませ、三日三晩の後 彼を陸地に吐き出させます。こう して神によって救出されたヨナは悔い改めて、神が当初命じられたようにニネ ベに行って、罪を悔い改めないニネベはあと 40日したら滅びる、と宣言しま す。ところがこのヨナの言葉を聞いたニネベの人は実に素直にその言葉を受け 入れ、王様から奴隷に至る全ての人が悔い改めます。彼らが悪の道を離れた事 を見た神は思い直して、ニネベを滅ぼすことをやめました。

自分が預言した通りにならなかったヨナは大いに怒り、「死んだほうがまし だ!」と怒りを爆発させます。ヨナは自己中心的な私たちの現在の姿を投影しているのかもしれません。ある時は熱心に祈り御言葉に聞くが、自分の気に入 らないことが起こると、不平を言う私たちです。

自己中心の怒りを爆発させるヨナに神は「お前は怒るが、それは正しいこと か」と問いかけ、怒りの感情そのものを否定しません。怒りに寄り添いつつ、 しかし自分自身と向き合わせ、神の愛の深さに気づかせようとします。このあ と神は、ヨナを灼熱から救うためにとうごまの木を与えて日陰を提供してヨナ の不満は消えますが、翌日にはそのとうごまの木が虫に食われて枯れてしまい、 再び灼熱がヨナを襲うとヨナはまた「死んだほうがましだ!」と怒ります。ま たしても主は「その怒りは正しいことか」と語りかけます。この問いかけは、 神の深い愛を知る入り口なのだと思います。ヨナが怒りながら言っていること は不思議です。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富 み、災いをくだそうとしても思い直される方です」と言うのですが、これは信 仰告白であり、神の愛の証しです。主に怒りを並べ立てると、神の恵みに気づいてしまうのです。神は私たちの怒りをうまく用いて、神の愛の深さ、神の恵 みに気づかせてくださるのです。

私たちが怒りに震え絶望し「死んだほうがましだ!」と思う時、そんな私を 愛し救いに招くために、尊いひとり子イエス・キリストを惜しまずに死に渡された神の愛に気づくチャンスが訪れています。もう私たちは怒ったり恨んだり 絶望して「死んだほうがましだ!」と思わなくてよいのです。私たちの怒りも 絶望もすべて身に負ってイエス・キリストが十字架にかかってくださいました。 このイエスを通して示された神の愛を受け入れて、安心して感謝して生きてい きましょう。

 

717日 説 教―           牧師 山中 臨在

  「最高の道」コリント信徒への手紙12:31b13:13

  内部分裂を起こし道徳的にも乱れていたコリントの教会に対してパウロは 、 「愛は最高の道」と手紙を書いています。それまでパウロは、各自に与えられている賜物を用いてお互いに尊重し助け合いながらキリストの体を建て上げるように言っていますが、愛は賜物ではなく、最高の「道」と語ります。道の 役割は人を目的地に連れてゆくことです。どんなに優秀な人がいてもどんなに 素晴らしい物があっても、道がなければそれらが有効に用いられません。

コリントの教会には、預言の賜物や聖書の知識を持つ賜物、山を動かすほど の大きな信仰という賜物があふれていましたが、教会の中は混乱していました。 それらの立派な賜物が通れる道がなく、賜物が活かされず実を結んでいなかっ たからです。自分の全財産を貧しい人に施すような立派な人もいたのでしょう。 でも愛がないならそれは意味がないと言うのです。

4 節から 7 節まで愛の性質が書かれていますが、ここに描かれている愛は、 神の愛です。十字架上のイエス・キリストによって、愛という最高の道が示され私たちに開かれたのです。私たちにできることは、その最高の道を歩くこと です。その道を歩かなければ、どんなに豊かで優れた賜物があっても、それは 実を結ばず「無に等しい」のです。この愛は神だけが持っているもので私たち 人間の内にはありません。だからここに書かれている愛の性質を示せないから とがっかりする必要もないし、逆に自分はすべてこの愛をもっているとおごり 高ぶることはできません。

マルティンルーサーキング牧師は、黒人差別廃止運動を指導していたという 理由で、投獄されたり教会に爆弾が仕掛けられたり、彼の子どもたちが暴行を 受けたりしました。彼は決して忍耐強かったわけではなく、自分たちを不当に 苦しめる人々に対して情け深くあることなどできませんでした。いらだちや恨 みも抱きました。ここに挙げてある愛の性質を彼は満たしていませんでした。 牧師として豊かな賜物を持っていた彼は、愛の道を歩くことができず、怒りと 苦しみの暗闇の中で絶望の淵にいました。しかしイエス様が示された愛の道へ 導かれた時、彼の闇に希望の光が差しました。そして自分の歩みに愛が欠けて いることを示された彼は、「敵を愛しなさい」という説教をしたのです。自分 たちを苦しめる人たちを好きになれたわけではないし、彼らを好きになろうと いう勧めをしたわけでもありません。でも「その人たちを愛することはできる」、 それはまさに、自分を苦しめあざけり十字架にかけた人々を徹底的に愛し抜かれたイエス・キリストが示された愛の生き方でした。敵を憎んでも何も生まれ なかったけれど、イエス様が示された道を歩いた時に、彼らのために祈ること ができることと敵を友に変える愛があることを知りました。まさに主イエスを 通して示された神の愛は最高の道でした。

神様の示された愛の道は決して滅びません。この最高の道を私たちも歩みましよう。

 

710日 説 教―               牧師 山中 臨在

「信仰で飯が食えるか!」

         ヨハネによる福音書2:111

牧師になる決意が与えられた時、親から「信仰で飯が食えるか!」と反対さ れた牧師の話を聞いたことがあります。信仰で飯は食えるのか? この問いに 聖書は何と言っているでしょうか。

カナで結婚式があり、イエスと弟子たちも招待されました。ところが客をも てなすぶどう酒がなくなる非常事態が発生しました。婚宴の責任は新郎にあり ましたので、ぶどう酒がなくなるということは新郎及びその家族の大失態にな ってしまいます。食事の責任を持っていたイエスの母マリアも必死にその場を 乗り切ろうとしますが、どうすることもできません。マリアはイエスに助けを 求めますが、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時は まだ来ていません」というそっけない返事です。しかしこのイエスの言葉はと ても重要です。「婦人よ」という呼びかけは、女性を敬う大変丁寧な言葉です。 イエスの公生涯と呼ばれる伝道活動は実はこのカナの婚礼によって始まりま した。もはやイエスは救い主として存在されています。母マリアとて、彼の伝 道対象者となっている一人の人であることを示すのがこの言葉です。マリアに してもそのことを感じ取ったのでしょう。「この人が何か言いつけたら、その とおりにしてください」と救い主に対する全面的な信頼を寄せる決意をした彼 女の様子がうかがえます。

さて、そっけない返事をしたイエスでしたが、しっかりと問題に対処しよう としています。でも彼の言っていることはとんちんかんです。6つの水がめ(恐 らく1つ 100 リットルほど入る)に水をいっぱい入れなさい、と言います。 「言われたとおりにしろ」と言われたから 600 リットルの水を入れたけれど、 給仕の人たちも「この人を信じたところで、こんなこと何の役にも立たない」 と思っていたことでしょう。しかしそこにぶどう酒が与えられました。しかも それまで出していたぶどう酒よりも良いものでした。「信仰で飯が食えるか! 信仰したからと言って私たちの必要が備えられるわけじゃないだろう」という 声に応えるかのようになされたイエスのわざでした。これはイエスが最初にな さった奇跡だとよく言われますが、聖書には「しるし」と書かれています。イ エス様が救い主キリストであり神の栄光を現すために来られた方であること のしるしなのです。そして主は私たちに必要なものをすべて備えてくださる方 です。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによっ て、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(フィリピ 4:19) と聖書は語ります。

カナの婚礼の物語は更なるメッセージがあります。イエスによって 600 リ ットルほどの上等なぶどう酒が用意されましたが、既に婚宴の客は結構ぶどう 酒を飲んでいたので、もうそんなにぶどう酒は必要ないはずです。きっとこの 600 リットルのぶどう酒は余ります。でも婚宴は続くのです。それは、まだこ の宴に招かれていない人たちをも招くためです。神様の恵みは有り余っていま す。なくなることがありません。この神の国の恵みにあなたも招かれています。

 

3日 説 教 ―            牧師 山中 臨在

    「聖書持ってる?

              テモテへの手紙() 3:1017

ユダヤの人は、幼い時から家庭で聖書を学ぶそうです。クリスチャンになっ ても聖書の教えから離れてしまう誘惑にさらされます。だからこそ、聖書の教 えを幼い頃から学び続けて自分の心に宿らせることは、とても有意義なことで はないでしょうか。

では人はなぜ聖書の教えから離れるのでしょう。それは、主から直接聞かな いからではないかと思うのです。私たちは誰かから聖書の言葉を聞き、聞いた 聖書の言葉について誰かが書いた聖書の参考書を読み、キリスト教の学びをし ます。それは大切なことかもしれませんが、知らず知らずの内に、良くも悪く もその「誰か」の影響を受け、それが基準となってやがて自分の中で聖書の言 葉を自分なりに解釈していきます。しかし聖書こそが「人を教え、戒め、誤り を正し、義に導く」ものです(16)。主の言葉を自分の都合の良いように変え ることは許されません。私たちの信仰の規準は聖書です。人は神様の息を吹き 入れられて生きる者とされました(創世記 27)。聖書も神様の息吹(神の霊) によって生きた言葉となって(16)、私たちに直接語りかけています。「幼い日 から聖書に親しめ」(15)と書かれていますが、聖書と親しむというのは、神 様と人格的な交わりをし、神様の語りかけを直接聞いて、神の子として整えら れていくことです。幼い時からそうしなさい、と言われています。

「御言葉はあなたを斬る」とある牧師が言ったことを覚えています。確かに 聖書は時として耳に痛いことも言ってきます。私たちを戒め私たちの誤りを正 します。でもそれは主が私たちを愛していて、私たちを義に導きたいと思うが ゆえのことです。耳に痛い聖書の言葉を避けて、いつも居心地よく信仰生活を したいという誘惑は誰にでもあるでしょうが、それでは神様に喜ばれる者とし て整えられていくことができません。

私たちが立ち返るべきは聖書です。聖書だけが人を教え、戒め、誤りを正し、 義に導いてくれます。しかし人間はすぐに聖書にとって代わって自分が人を教 えたり戒めたり誤りを正そうとしてしまいます。人の声ではなく、神様の声に 聞かなければ私たちは義の道からはずれてしまいます。だから「幼い日から聖 書に親しみ」(15)日々歩む必要があります。あなたのこれからの人生にとっ て最も幼い日は、今日です。今から聖書を手にし、聖書に親しむ人生を送りた いのです。聖書を持っていますか。聖書には至るところに恵みの宝がちりばめ られています。日曜日に配る歌集は聖書ではありません。聖書は全体を読む必 要があります。自分に都合のよい一部分だけ切り取って読むのでは神様と親し い交わりができません。ぜひ聖書を持って(心に宿して)、御言葉に立ち返る 歩みをしましょう。