説教要旨

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1122日 説 教―              牧師 山中 臨在

         「Go To 神様」 民数記9:18

 政府のGo To トラベルという経済復興対策には、参加者や参加事業体が除外されるなどさまざまな問題も生じました。一所懸命に考えて下さった計画ですが、人が考え、計画していくことには脆さと限界があるのでしょう。

しかし神様の計画には揺るぎがありません。その計画は誰も除外しないと聖書は語ります。エジプト脱出の翌年の第一の月の14日の夕暮れに過越祭を祝うようにと神様が命じられました。ところが問題が生じます。民の中に死体に触れた人たちがいたのです。これに先立ち主は「死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい」と定めていたので、彼らは神様が命じられた過越祭に参加できないという事態になってしまいました。でも彼らには不公平感があります。自分たちは確かに死体に触れたが、「なぜこの定めの時に、主に献げ物をささげることから除外されなくてはいけないのでしょうか」と訴えます。主に献げ物を捧げるというのは礼拝のことです。つまり、死体に触れた者が主を礼拝できないのはおかしいのではないか、という訴えです。

その時、モーセは「待ちなさい。主があなたたちに何とお命じになるか聞いてみよう」と言いました。彼は、人間の知恵では解決できない時には、神の声に聞くことが大切であることを自ら示され人々に伝えました。その結果、神様は死体に触れた人にも礼拝する道を備えてくださいました(11)。これは、人の罪を象徴しています。礼拝者としてふさわしくない私たち罪びとも神様は礼拝に招き、私たちが神様の言葉に聞き、救いの道を受け入れ悔い改めるのを、待ってくださいます。神様は民がエジプトを出た後も、過越の祭りをしなさいと命じられました。これから続く荒れ野の旅路にも小羊の過越の血が必要だったからです。この先の人生の旅に起こる様々な苦難や試練に人々の心は罪の誘惑に遭います。その都度、小羊の贖いを思い出し、罪を悔い改めて礼拝者とされていくのです。今を生きる私たちも、絶えず主イエスの贖いの血に思いをはせ、自分の罪を悔い改める者として人生の旅を歩まなければなりません。そのためには、いつも私たちを正しい道へ導く神様の言葉に聞くことが必要です。神様の言葉をいただくためのGo To トラベルから誰も除外されません。

その旅は、いつも前進するばかりではありません。目的地に向かって急ぎたいイスラエルの民に神様は、必要な時には言葉をもって「待った」をかけ、進むべき時にも言葉をもってGoサインを出しました。民はこのようにして、神様の言葉と共に待ち、神様の言葉と共に進みました。私たちの人生の旅にもいろいろなことがあります。前進するだけではなく、時として「待った」がかかります。後退することさえあるかもしれません。思うように前進しない時にはイライラするし苦しみます。けれど、神様はいつも人と共に歩んでくださいます。私たちはGo To Travel with God(神と共に歩む)の人生を、しっかりと歩みましょう。

 

1115日説 教―                牧師 山中 臨在

「子どものように」マルコによる福音書10:1316

  申命記6:49

  イエス様の所に子どもたちを連れてきた親をイエス様の弟子が叱りました。それに対してイエス様が憤ったのですが、それはなぜでしょうか。イエス様に触れていただくことは、イエス様に祝福の祈りをしていただくことを意味します。そしてそれは礼拝することです。イエス様に触れていただくために自分の子どもを連れてきた親たちの行為は、イエス様と子どもたちとそして自分自身とが集まって共に礼拝することです。そうした親たちを弟子たちは叱りました。子どもがうるさかったからなのか、忙しいイエス様をこれ以上煩わせたくなかったからなのかはわかりませんが、私たちも同じように思い、同じように行動するかもしれません。そんな弟子たちを見てイエス様は憤りました。愛に満ちたイエス様が憤るのには理由があります。神の国が冒涜される時(神の癒しの業が人の都合で遮られようとする時、祈りの家が強盗の巣とされる時、人の思いが第一とされ神様が中心に置かれない時)に激しく怒って、人々を正しい道へ導こうとされるのです。それは即ち、礼拝が人の思いによって妨げられようとされている時です。イエス様は、神の国の住人を神以外の人が決めることはできないことを勧告します。そしてその神の国の住人とは、「子供のように神の国を受け入れる人」(15)であることを教えるのです。

  子どものように神の国を受け入れる人とは、子どものように自分が無力であり、いただいた恵みに対して何のお返しもできないことを知っている人、そして主に差し出された恵みや招きに対してそれをただ受ける人のことではないでしょうか。この箇所で子どもは自分を抱き上げようとするイエス様にされるがままに身を任せました。このように主を受け入れる人が神の国の住人です。誤解してはいけないことは、神の国に入れるのは子どもかおとなか信仰深い人なのか、ということではなく、主に招かれたからだ、ということです。お返しはいらない、ただその招きに応えるだけでいいのです。

  そして、主はすべての人を礼拝に招いておられます。礼拝はいつも子どもと共なる礼拝であり、おとなと共なる礼拝です。高齢者と共なる礼拝であり、障害を持つ方と共なる礼拝、外国の方と共なる礼拝、自分が嫌いな人とも共なる礼拝です。主に招かれている人を、人間が自分の都合や理由で排除することはできません。

  今、神様はあなたを神の国の住人として招いておられます。その招きを子どものようにただ受け入れて歩む者となりましょう。

 

118日 説 教―          牧師 山中 臨在

  「行ったことのない所」ヨハネ黙示録21:15

死んだらどこに行くのか、どうなるのか、これは人間の大きなテーマです。ここにいる私たちは誰一人死んだことがないから、自分の経験としてそれを語ることはできません。だからこそ私たちはすべてのものの創造主である神の言葉である聖書に聞かなければなりません。どう死ぬかということはどう生きるか、どこに目的地を定めて生きていくかにかかってきます。そしてこの世に目的地がある限り不安は消えません。この世の目的地には確実なことがないからです。確実で揺るがない目的地は、神の国です。なぜなら、そこは神が人と共に住み、人の涙をことごとくぬぐいさってくださる所だからです(3-4)。不安の涙が一粒残らずなくなるのです。そしてそこにはもはや死も、悲しみも、嘆きも、労苦もありません(4)。神の国は、最も確実なガイドブックである聖書が、その素晴らしさを保証しています。「この私の」苦しみも痛みも、不安も、そして死の恐れもすべて取り去られる所に行くことは、私たちにとっては大きな希望ではないでしょうか。

 そしてその神の国への旅はもう始まっています。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)とイエス様は明言します。私たちのこの地上の人生は、神の国へ向かう途上のものです。私たちは今礼拝をしていますが、肉体の死を経て神の許へ召されたあとも、礼拝は続くのです。「神の幕屋」(3)とは礼拝する所です。それが「人の間にある」のですから、そこでも礼拝をします。ということは、この礼拝は神の国へ向かう旅の既に一部となっています。肉体の死はその先にある目的地に向かう旅の通過点です。しかしとても大切な通過点です。私たちはその大切な通過点に向けての備えをする必要があります。イエス様が再び来られる時には「新しい天と新しい地」(1)が与えられますが、肉体の死を経て、私たちには新しい命が与えられるのです。言い換えるなら、死ななければ新しい命が始まりません。だから死ぬことは大切で、素晴らしいことです。

召天者記念礼拝は、目的地である神の許で永遠の安らぎを召天者に与えてくださったことに感謝すると共に、今地上に命を与えられている私たちにもイエス様が出会ってくださり、復活であり命であるイエス様を信じて神の国への旅を歩み始めなさいという主の招きに応答する時です。それが私たちのなすべき死への備えです。

 死ぬことは新しい命の始まりです。どう死を迎えるか、どう死を通過していくか、その備えが大切です。そしてそれは礼拝をすることです。死を通過する前も通過した後も、同じ目的地である神の国を目指してみことばに聞き祈ります。神の国へのガイドブックであるみ言葉にしっかり聞き、備えをしていきましょう。

 

 

111日 説 教―         牧師 山中 臨在

   「逆方向」 (マタイによる福音書16:2128)  

シカゴ川は流れを逆流させることで、市民の命を救いました。キリスト教の信仰も、この世の流れと逆方向に流れています。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)とイエス様は言っておられます。世の人の流れとは逆です。しかしいくら主イエスの教えでも、世間と逆方向に歩んでゆくのは簡単ではありません。

ここで言う「命」とは「生きる」ことであって「生存している」(心臓が動き、肺が呼吸する)ことを指すのではありません。むしろ「魂」に近い意味です。生きるということは、神様が自分に与えて下さった目的を知り、一瞬一瞬を感謝をもってイキイキと歩むことなのではないかなと思います。先日召された片桐ひささんは、クリスチャンとして生かされ、ご家族のお話によるといつも「感謝、感謝」と主に感謝をしていたそうです。生きるとはそういうことではないかと思いました。以前危篤になられた方の病床に伺いました。お名前を呼びかけても反応はありませんでしたが、牧師が聖書を読み始めた時、その方の顔が牧師の方に向きました。そして私たちが賛美歌を歌った時、その方の口元が動き賛美歌の歌詞をなぞりました。そばにいたご家族皆が「あっ!」と声を出して驚いた程の出来事でした。もうこの世の食べ物や薬は彼女を生かすために何の役にも立たなかったけれど、主の言葉が彼女を「生きる」ものとしていたことを実感しました。

神様が与えてくださったあなたの命は、全世界を持ってしても買うことができないほど尊いものです(26)。その価値ある命を生きるためには、世間の流れを捨てて神様の流れの方向に歩みなさい、とイエス様は語ります。王であるイエス様が人間のしもべとして来られたこと自体が世間とは逆です。そして更にその王が十字架にかかって殺されること、これも世間とは逆。三日目に復活する、全くの逆方向です。でも王が私たち人間に仕えるために来るという、世間とは逆の流れに身をおくほどに、私たちを愛してくださるのが、世間とは逆流する神様の愛なのです。

25節の言葉は、「自分の命を救おうと」する者は、自分本位に生きて、真に自分を生かす源である神様の流れに身をゆだねないから、その人は神様が与えてくださった「キリストのように生きる」人生の目的を生きられない、逆に自分本位という流れを捨てて神様の流れに身をゆだねるならば、神様によって真の生き方をすることができる、ということを教えているのでしょう。

 神様の流れは、それに沿って生きるのが難しく、面倒くさく、苦しいかもしれません。しかしその流れに沿って生きることで神様は私たちを本当の目的地へと導いて下さり、真の喜びと平安を与えてくださいます。世間の流れに沿って罪の道へ向かい本当の目的を見失うことがないように祈りましょう。真理はそれと逆方向にあります。