説教要旨3月

 

322日 説教―                牧師 山中 臨在

      「万事休す」   ヨハネによる福音書19:2830

 

30節に書かれている十字架上でイエス様が言われた言葉は、原語で「テテレスタイ」と言いますが、口語訳聖書では「すべてが終わった」、新改訳聖書では「完了した」、そして新共同訳聖書で「成し遂げられた」と訳されています。それぞれの翻訳に工夫がなされていて、それぞれに意味があるように思います。

 「終わった」の訳ですが、イエス様が十字架で命を差し出されたことによって終わったのは、旧約の時代から続けられてきた、罪の償いのために動物のいけにえを捧げることです。動物のいけにえが繰り返し行われるにつれ、罪の悔い改めという本来の目的が見失われ、単なる儀式になりつつあったところにイエス様が世に遣わされました。ご自身が人の罪のいけにえとなって下さったことで、律法に規定された動物犠牲の儀式が終わり、人の罪を赦すのは動物犠牲の行為ではなく、神様からの一方的な赦しであることが示され、その神様の永遠の贖いである罪の赦しを教えたイエス・キリストの十字架をただ見上げ悔い改めなさい、そのようなメッセージが注がれているのではないでしょうか。

 「完了した」について。人間の根源的な問題は、罪からの救い、ということです。罪からの救いのために人が続けてきた動物のいけにえを捧げる作業を、もうしなくて良い、と神様が言われます。人は皆いわば罪の牢獄に囚われている身です。この牢獄にいる人を助け出すことのできるのは、罪の牢獄の外にいるイエス・キリストただ一人です。イエス様は罪の牢獄にいる人間を助け出し、最後に自分はその牢獄に残られました。そのことによってこの罪の牢獄からの救出作戦は完了しました。

 そして「成し遂げられた」の訳。人類の罪からの救いという神様の究極の目的を成し遂げられたというメッセージを、イエス様は息を引き取る前に伝えました。またこの「成し遂げられた」は別の角度から見てもとても重要です。創世記の天地創造に始まり、すべての事柄は、神様が言葉を放つことによって成し遂げられていきました。神様が放った真理の言葉、神様のご意志は、必ず成し遂げられるのです。これが「テテレスタイ」が私たちに語りかける力強い希望のメッセージです。

私たちは人生の歩みにおいて時折「万事休す」と思うことがあります。しかし主は「あなたの人生万事休すことはない」と語るのです。主は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されたからです。「死も、命も、・・・現在のものも、未来のものも・・・どんなものも、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ8:38-39)と語る聖書の言葉は成し遂げられるのです。万事休すことのない人生を主によって与えられている希望を持ちながら今週も歩いていきましょう。

 

 

―315日 説教             牧師 山中 臨在

 

「どうして私を見捨てたのですか」

            (マルコによる福音書15:3341)

 

イエス様の言われた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は理解することが簡単ではないかもしれません。しかしマルコによる福音書では十字架上でイエス様が発した言葉はこの一つしか記されていませんし、またその言葉を聞いた百人隊長はこの言葉を聞いてイエス様を神の子と信じました。だからこれは、大切なメッセージを語る言葉なのです。

 神の子イエス・キリストは何でもできる方ですが、一つだけできないことがありました。それは、罪びととなることです。罪は神と人とを隔てるもので、イエス様がこの隔てに対して人間側に来ることはできません。しかしそれではイエス様は真に人となることはできません。人の痛みや苦しみを負い、寄り添うことができないのです。聖書は「人は皆、罪を犯して神の栄光をうけられなくなって」(ローマ3:23)いて、「罪が支払う報酬は死」(ローマ6:23)であると語ります。人はすべてその罪のゆえに死ななければならないのです。そして罪の代価である死とは、神様に見捨てられることです。罪ある私たちは本来神様から見捨てられた存在です。神様から見捨てられた存在であるその絶望を主イエス自らが受け止め、自らが経験してくださったのです。そのことでイエス様は真に人となって下さいました。そして、本来死という神から見捨てられる罪の罰を受けなければならない私たちにその罰を負わせないで、イエス様ただ一人がその罰を受けてくださいました。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(2コリント5:21)と聖書は語るのです。イエス様は十字架上で、神に見捨てられるとはどういうことかを人々に示されました。「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」という最上級の絶望の言葉を耳にした百人隊長は、その中に真実の神の愛を受け取って信仰を与えられました。

 もう一つこの言葉から、礼拝とは何かということを学ぶことができます。イエス様は十字架の上で礼拝をなさっているのです。神様はイエス・キリストを見捨てました。全力で見捨てました。その神様の働きを主イエスは全力で受け止め、そして全力で神に問うています「わが神、わが神、なぜ見捨てるのですか!」と。全力で神に問う、絶望しながらそれでも神に問う、それが礼拝なのだとイエス様は示しています。私たちは人生の歩みにおいて絶望し「なぜ神は私を見捨てるのか」と思うことがあるかもしれません。しかしイエス様が絶望の淵でも礼拝したように、私たちも礼拝をすることを神様は求めておられます。そして私たちが絶望し「見捨てられて一人ぼっちになった」と思う時、実は私たちは一人ではないことを覚えたいのです。その絶望をご存知のイエス様が共にいて、私たちの代わりに苦しまれたのだから、私たちはもう苦しまなくてよいのです。

 

 

38日 説 教―   牧師 山中 臨在

       「パラダイス」

           (ルカによる福音書23:3943)

十字架のイエス様の周りにいた人々は、寄ってたかってイエス様をののしりました。これまでイエス様がなさった数々の恵みと奇跡を見聞きし、或いは感動さえしたのに、この期に及んで人々の熱狂という極限状態に陥ると、誰かをののしる対象にしなければやっていられないのでしょうか。そしてイエス様の脇に十字架に架けられていた強盗の一人が言います、「自分自身と我々を救ってみろ」と。普通助けを求める時はお願いするものです。けれど極限状態にあるこの強盗は、怒り狂ったようにイエス様をののしりしながら「オレを助けろ」と言うのです。人間は自分さえ助かればいいという欲望に満ちています。今般のウイルス騒動では、マスクの奪い合い、トイレットペーパーの奪い合いや買占めが起きています。ちょっと咳をしただけで睨まれたり、全くいわれのない人種差別が起こっています。そしてやりきれない思いを、誰かをののしることにぶつけてしまいます。

 それに対して、もう一人の強盗は罪を告白し、イエス様を救い主と信じました。他の福音書によれば、この強盗はついさっきまで、はじめの強盗と一緒にイエス様をののしっていました。そんな彼が、短時間の間に180度変えられ信仰者となったのです。彼に何が起こったのでしょう。彼は自分の十字架の隣でイエス様が息も絶え絶えの中、「父よ彼らをお赦しください」と自分のことを赦してくださいと切なる祈りをされているのを聞いたのです。「悪の限りをつくしてきた自分をも愛し赦してくださる方がいる」そんな思いが神の霊の働きによって彼に与えられ、その瞬間に信仰者へと変えられたのです。彼の信仰告白を受けてイエス様は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言いました。鮮やかに赦しと救いの宣言が与えられたのです。主イエスを信じる者は信じたその瞬間からキリストと一緒であり、パラダイスから最も遠かった人もパラダイスに入ることができるのです。十字架という死のどん底までイエス様が降りて来てくださったのは、人間の苦しみの極みまで知って私たちととことん同伴してくださることを意味します。イエス様が地上で同伴された最後の人間は、十字架につけられるような極悪な強盗でした。イエス様の救いの対象は、このような強盗をも含むすべての人であることを聖書ははっきりと伝えています。

新型コロナウイルスの騒動の渦中にある私たちは、とてもパラダイスにいるような安らぎがないように思えます。ある意味極限状態に置かれているのかもしれません。しかしその極限状態にいる私たちにもイエス様は共におられます。極限状態で自分さえよければいいと他者を平気でののしり批判し傷つける罪深い私たちにもイエス様は共におられます。私たちをあきらめず、私たちにパラダイスの切符を渡したいと思っておられるのです。その愛に応え、私たちも「今日」罪を悔い改め、主を信じる道を歩きましょう。

 

31日 説 教―          牧師 山中 臨在

      「ゆるす」

        (ルカによる福音書23:3238)                                                    

イエス様の本質は、最期の言葉によく表れています。イエス様が十字架上で言った7つの言葉の一つ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」という言葉を通して聖書は、赦しとは何か、赦されるとは何かということを教えています。

まず、罪を赦す主体は神様であることです。イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44)と山上の説教で語られました。それを聞いた人々は「いい話だなあ」と思って聞いたかもしれないし、ある人は感動したかもしれません。けれど実際自分を傷つけた人や苦しめた人を許せるかという局面になったら、そういう人を許すことは極めて難しいのです。また、人が犯した罪は、どんなに善行を積んでも、どんなに立派なゆるしの儀式に参加したとしても、それが罪を赦すことはできません。罪を赦すことができるのは、ただ神様お一人です。だからイエス様は自分を迫害する者たちの罪を赦してください、と息も絶え絶えの状態で、神様に懇願なさったのです。

次に、罪が赦されるための手段は、イエス・キリストによってだけだということを覚えたいと思います。牢獄に入っている人をその牢獄から出すためには保釈金が必要ですが、イエス様ご自身が私たちのために保釈金となってくださいました。保釈金を払うことの出来る人は牢獄の外にいる人だけです。罪の牢獄にとらえられている私たちの保釈金を払うことは、罪の牢獄の外に入っていない人だけです。そしてそれはイエス・キリストしかいません。私たちの保釈金となって命を差し出した方はイエス様以外にいないのです。私たちの善い行いや努力では罪を赦し赦されることはできません。すべてそれはイエス様を通してなされなければなりません。

ゆるす、という事柄が起こる状況を考えてみましょう。まず人が自分に「悪い」ことをします。そこで人は自分に借りができます。「借りたら返せ」というのが社会のルールですが、聖書は、借りを帳消しにしなさい、と私たちに語っています。借りたものを返すのが「許す」ことですが、聖書は、借りを帳消しにして「赦す」イエス様の姿を描き、そのイエス様に倣う者として生きなさい、と私たちに迫るのです。

私たちの日常には腹立たしいことや許せないことがたくさんあります。そんな時、その思いをイエス様にぶつけてください。主があなたに代わって、あなたの怒りを引き受け、和解の道へと導いてくださいます。あなたが人を許せない時には、神があなたの罪をイエス様の十字架によって赦してくださったことを思い出す大きなチャンスが与えられています。また、あなたがイエス様にゆだね人を許す思いに導かれる姿を見て、人はイエス様の救いと愛を知ることができます。そして何よりもあなた自身に平安が与えられます。