説教要旨

29日 説 教―      牧師 山中 臨在

「大きい小さいではなく」マルコによる福音書12:4144

一人の未亡人がレプトン銅貨2枚を献金しました。今なら100円玉2枚、という感じかもしれません。他の人はもっと多額の献金をしていましたが、彼女の献金がイエス様の心に留まりました。現代と違って当時の未亡人は働くこともままならず、生活をしていくことが本当に苦しく貧しい生活を強いられていました。それでも彼女は信仰を貫き、生活費のすべてを捧げました。その彼女をイエス様は「見て」いました。イエス様はこの未亡人の貧しい生活、疲れ果てて今にも折れそうな心、彼女の涙をじっと見たのです。誰にもわからない心の内を、イエス様だけはじっと見てくださって、「大丈夫」と言ってくださるのです。この未亡人が捧げた献金を「この人はだれよりもたくさん献金した」と主は言われました。イエス様が使われている尺度は明らかに私たちの尺度とは異なっていることがわかります。未亡人はそのお金を捧げたら明日からどうしたらいいかと思い煩うよりも、主に委ねました。それに対してお金持ちたちは有り余る中から捧げました。人間の尺度ではこの金持ちの姿が通常です。私たちも例外ではないのかもしれません。しかしイエス様は、神に委ねることをこの未亡人の姿を通して私たちに教えています

 聖書は、主にすべてを捧げなさい、と語ります。これが私たちのなすべき礼拝の姿勢です。私の有り余る中から一部だけ、ではないのです。仕事をしている時も、勉強している時も、友達と遊んでいる時も、たえず主のまなざしが注がれていることを思い、主に感謝しながらその時を過ごしなさい、ということです。私たちの礼拝する姿を主はじっと見ておられます。主が私たちにくださった賜物を私たちがどのように主にお捧げするのか、主はじっと見ておられます。私たちは大きい小さいを気にします。私たちの物差しでは、200円より2万円のほうが大きく、20分奉仕するより2時間奉仕するほうが大きいのです。しかし主の物差しは私たちのとは違っています。主は私たちの心をじっと見つめておられます。私たちの主にゆだねる信仰を喜ばれるのです。だから私たちも、他人の眼差しではなく、主の眼差しを見て歩まなければなりません。

 あなたの有り金全部を献金しなさい、あとの必要なものは天から降ってくる、と言っているのではありません。ただこの未亡人のように、貧しくても迷わずに主のみ手にゆだねて自分を捧げなさい、そのことを主は喜び、私たちの尺度では測り知れないような恵み、永遠の命のプレゼントを与えてくださるのです。

私たちは誰しも貧しいです。いろいろなことが欠けている存在です。神様の愛と憐れみなしには生きていけません。その神様の愛があふれる眼差しに対して、私たちが考える大きい小さいではなく、精一杯自分自身を捧げていきましょう。

 

 

22日 説教―                    牧師 山中 臨在

   「ワンチーム」ヨハネによる福音書12:2026

昨年、「ワン・チーム」という言葉が流行語になりましたが、聖書はその前から、主の前にワン・チームになることの大切さを語ってきました。イスラエル人にとって大切な過越の祭の時に異邦人であるギリシャ人がやって来て、「イエス様に会いたい」と弟子の一人フィリポに頼みます。フィリポは自分一人で決めないで、アンデレに相談して、その結果イエス様に取り次ぎます。そのことを聞いたイエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言いました。これは、自分が十字架の死に向かって行くことを意味する重要な宣言です。イエス様はギリシャ人の訪問を受けて初めて、自分が何のために世に遣わされ、どのようにして死んでゆくのかという大切なメッセージを語ったのです。イエス様が世の救い主として、イスラエル人たちのためだけでなく、ギリシャ人を含めてすべての人々のために、贖いの死を遂げられるという神様の大きな救いのご計画のメッセージは、イスラエルの祭りに来たギリシャ人たちと、その受付係を担ったフィリポと、フィリポから相談を受けたアンデレと、そういう一つのチームの協力によって実現されたことでした。ここに、福音宣教のわざは、チームによってなされることが示されています。決して誰かの独断で起こされるのではないこと、また神様は、御自分のご計画をなさるのに、人を必要とされるということが語られているのです。そしてこの神様の救いのメッセージを伝えるチームには、私たち一人一人も含まれています。

 福音宣教のワン・チームになるためにイエス様は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」と言われました。実を結ぶために死ぬ、ということです。これは、「ワン・チームとなるために、自分の栄光を手放すことによってチームに栄光がもたらされる」ということです。自分の栄光を捨てることによって自分が栄光を受けるのです。そのことをイエス様が模範として示されました。イエス様は神の子として、神の国の王としてその栄光があったのに、その栄光の冠を捨てて、十字架に進んで死なれました。そのことによって、本来罪のゆえに死ななければならなかった私たちが罪を赦され、神の子としての栄光を受けました。イエス様という一粒の麦が死んだことによって多くの実が結ばれました。

 ワン・チームになるのを妨げようとするサタンの力はいつも働きます。自分と異なる意見や存在を排除したいという誘惑は誰にでも起こり得ます。その誘惑に勝つために私たちは互いに祈り合わなければなりません。祈り合わないところに主のワン・チームは生まれません!

聖書はあなたに、福音宣教のワン・チームになりなさい、と語ります。そのために自分の栄光を捨てよと決断を迫ります。私たちはワン・チームになっているでしょうか。主の迫りにあなたはどう応答しますか。