説教要旨

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58日 説 教 ―             牧師 山中 臨在

 「人生の土台」 コリント信徒への手紙() 3:911

建物を建てる時は、しっかりした土台を据えることが大切です。面倒で大変 だからと言って土台作りを怠ると、建物は倒れてしまいます。聖書は、イエス・ キリストこそが人生の土台であり、イエス以外の土台は据えることができない と言います。「イエスを土台に据えればあなたの人生は揺るがない」というメッセージをよく聞きますが、自分の信仰生活を振り返ると、いまだに揺れてば かりです。焦る中で今日の箇所を何度も読み返している内に、ふと地震の時に 高層ビルが揺れていたことを思い出しました。ビルが揺れることは怖いと思い ますが、実はこの時しっかりした土台は揺れていません。むしろ建物が揺れる ことでビルの上の方の階には力が加わらず安定を保っているのです。人生も同じなのではないでしょうか。実は人生は揺れるのであって、しっかりした土台 が据えられていたら、倒れない、そういうことなのだと思うのです。高層ビル が揺れることで安定を保ったように、揺れることは人生においてむしろ必要な ことかもしれません。高層ビルが揺れるたびに、しっかりした土台に支えられていることを確認できるように、私たちの人生が揺れる時に、私たちが土台に 支えられているならば、その土台を感じることができるのです。そして聖書は、 その人生の土台はイエス・キリストしかいない、ほかの土台を据えることはで きないと語ります。100 パーセントイエスが土台なのです。100 パーセントイ エスを土台に据えることがどんなに面倒くさくても手間がかかっても、そうし ないと人生という建物は倒れてしまうよ、と語っているのではないでしょうか。

10 節の「建築家」という言葉は元来「建物を建てるために個々の大工に建 築の任務を分配する人」という意味だそうです。教会は一人の建築家が建てる のではなく、すべての人が「神のために力を合わせて」建てられるのです。そこには喜びと共に難しさや苦しさもあるかもしれません。だから人生は揺れ動 くのではないでしょうか。そして揺れていいのです。揺れることは必要なので す。心砕かれ揺れる時に、土台であるイエスに守られていることを私たちは知ることができるのです。

100 パーセントイエスを土台とするのは難しいと思うこともあるかもしれ ません。しかし私たちがどのように土台を据えようとも、イエスのほうでは、 あなたの人生の一部ではなく、あなたの人生全体に関わっておられる、あなた のそばに絶えずいてあなたの道を導いて下さるということです。あなたがたとえイエスの方を見ていなくても、そのあなたのためにイエスは十字架にかかってくださいました。あなたがたとえそのイエスのことを理解できなくても、イ エスのことをどんなに憎んだとしても、イエスはあなたを 100 パーセント愛 しています。それは 100 パーセントあなたを見つめていなければできない業です。

ぜひ土台をイエス・キリストに置いて歩みたいと思います。たとえ今は苦しく前が見えなくても、イエスが私たちを照らします。私たちの揺れる人生をイ エスに委ねましょう。イエスの土台は揺るぎません。

 

51日 説 教 ―           牧師 山中 臨在

  「バベルの塔」 創世記 11:19

人々が天に届くほどの塔を作ろうとしていたのを良くないと思われた神様 は、彼らの言葉を混乱させて互いの言葉が聞き分けられないようにしました。 その結果人々は全地に散らされて行き、天に届く塔のある町は完成しませんで した。人間が違う言葉をしゃべるようになったのは神様からの罰だ、とする考えもありますが、どうなのでしょうか。

ここで問われているのは、同じ言葉が使われていたかどうかということより も、お互いの言葉を「聞く」ことができたかどうか、ということではないかと 思います。同じ言葉をしゃべっていても相手の言っていることを正しく理解できないことがあります。ちゃんと聞いていなかったり、「自分は正しい」という先入観から相手の意図を自分に都合の良いように間違って理解してしまう のです。それでいて自分に先入観があることには気づいていません。そして私 たちが最も聞くべきは神様の声ですが、それを聞こうとせず、身勝手な先入観 で物事を考えることが人間の「企て」(6)であり罪だと思います。バベルの塔 を作ろうとしていた人たちは「有名になろう」と思っていたとありますが、これは別の訳では「名をあげる」となっています。つまり神様の栄光のためでは なく、自分の名声のためにやっているという、罪の表れです。神様の声を聞こうとせず自分が中心になる様子を神様は悲しまれたのではないでしょうか。

このことは、今日の教会に発せられているメッセージでもあるでしょう。教 会が神様の栄光のために、と言いながら実は神様の声を聞かず、自分たちの名 誉のために存在しようとしていないだろうか、教会外の人を無意識に排除したり裁いたりしていないだろうか。あるいは教会内でも他者の言うことを尊重せずちゃんと聞かずに自分の主張を押し付けることで不和が生じていないだろ うか。バベルという言葉ですが、9 節に、バラルという「混乱」という言葉に かけてこの地がバベルと呼ばれたと書かれていますが、しかし元々は、「神の 門」という意味もあるようです。教会は、イエス・キリストを通してこの地上 に建てられた神の門、すなわちバベルなのではないでしょうか。この神の門を 通って神様との交わりを持つことのできる祝福の場所だと思いますが、しかし この神の門は、私たちの自己中心な先入観によって神様の言を聞こうとしなければ閉ざされてしまいます。教会を形作る私たち一人一人の心の中にもバベル の塔があるかもしれません。私たちが神様の声に聞き、他者の言うことを聞く とき、主イエス・キリストを通して神の門は開かれますが、私たちが聞くこと を怠って神様に背き他者をないがしろにしてしまう時、あなたの中のバベル、 即ち神の門は閉ざされてしまうのです。

私たちが神様の声に聞き、イエス・キリストを主と仰ぐ時、すべての人が言 葉の違いのみならず、国の違い、文化の違い、あらゆる違いを超えて本当の意 味で一つにされるのではないでしょうか。